源泉の如く湧き続けるそれはあっという間に衣服を伝い床へと広がった。音も立てず静かに零れゆく浸みは浸蝕を停める気配がない。ただ確実に辺りを色鮮やかに染め足を踏み出さずともその温かさが伝わってきそうな程、生の残滓を強烈に留めていた。
見ればわかる。一瞥し跨ぎ越えてこれで相手を殺す理由が出来たと思った。目線を真っ正面にやれば雪だるまのように立ち尽くす男の表情がつぶさにわかるのだから。動揺昂揚猜疑気まずさありとあらゆる感情のどれを一番に出せばいいのかすら計り兼ねているようなその面構えを見据え、且の人はぴちゃりと床を踏み上げた。
おもむろに一歩近づく。
まだ刀は抜かない。冷えた柄を手に馴染ませるように握り締め、どう出ればよいのか図り兼ねている男に言葉を掛けてやる。努めて客観的であろうとするのだが、ともすると傍観的になりがちな悪癖を相も変わらず語句に詰め込んで、一警官として薄ら寒い対話を図ろうと努力する。
「お前には殺す価値もない。」
一見小馬鹿にしたような口調が如何にもくだらないとばかりに吐き捨てられる。彼にしてみれば至極真っ当な印象を述べたしかるべき台詞なのだが受け取る側が発言者の思惑通りに受け取るとは限らない。同様にして冷めた口調と投げかけた側自身の心象が相成っているとも限らないのだ。気取どらせはしないが掌に帯びた熱を持て余しているといった些細な裏事情が、少なくとも発言者自身には自ら押し殺した”ある種”の感情を否応に自覚させた。
振り返れば泣き崩れ鳴咽を僅かばかり残した子供が虚ろな影を落としかけている。それは昔戦場で幾度と見た光景には違いなかったがあれからまた何年もたった今になってまたそれを目にするとは思わなかった。運よく自分自身は親も健在でそういった点では恵まれているとも思ったが…。そうやって思考を一巡させていると、こちらの立ち振る舞いに痺れを切らしたのか対峙する男はようやく眼光に鈍い光を宿した。張り詰めつつある二者間の不穏を悟り、彼はツバ口に親指の腹を当てる。腹を据え狂気の標準を定めた相手からの殺意を一身に浴びながら、珍しく背後の様相に意識を捕われてしまうのは尋常ならぬ場が場の為だろうか。誰かに乗っ取られたかのように口はせわしなく開閉し、絶えず言葉を紡ぎだし続けなければ己の気が散ってしまいそうだった。
「ただ少々困った事をしてくれた。」
譫言にでも聞こえたか。一瞬片眉を吊り上げ不可解だといったそ振りをみせたが、それだけだった。抜き身の刀身があらわとなり、高くかざされた構えが狭い天井を一段と狭く感じさせる。もはや呟く時間を与えてくれる気はなくなってしまったらしい。
「しね!」
叫び声と共に登頂から真っ直ぐに振り下ろされた刃の風斬り音が耳元でブンと鳴った。モーションのように隙を狙って振り下ろしたつもりだろうが染み付いた血刀の臭いは肉体を俊敏に反応させる。肩口に刃が斜め入り込む刹那に腰を落とし相手の溝におのの凶刃を突き出したのは人斬りの条件反射か。次に瞼を開くと血が打ち水の様に赤く噴きだしていた。
…見開かれた眼差しがこっちを捉らえる。内蔵をやられ咥内に逆流した胃液やら血やらが唇から溢れだす。押さえても塞ぎ足りないのか指の隙間から涙の様に幾重もの筋が出来て行く。ゴボッと噎せる音が奇妙に響く。もがき苦しみながら地に伏し、何やら女の名を口走った。示現流の構え、ぼろを纏い女に囲われている、その三点だけで事情を察するには容易過ぎた。このまま観察することもできたが僅かばかりの情けが勝ったか、再度刃を振り下ろすことで苦痛から永久に解放してやった。完全に事切れ力が失われたのを目視で確認すると、自ら薙ぎ払った刃へと徐に目を落とす。昔の癖か、ついつい自分の太刀の軌道をいわゆる”使用後”の刀身から確認せずにはいられない。よくよく血糊を懐紙で拭えば、案の定とも言うべきか、紛れもなく腕に余計な力が篭っていたという数刻前の状況に気付かされた。”刀身が少々欠けている”。骨を断つ角度が些か狂っていたのか、やはり『太刀筋には抑え切れなかった』らしい。
崩れ逝く骸には目も暮れず、背後の紅く染まった女に声をかける。届かないと解り切っていながら、此れからやろうとしている己の行動全てが無駄だと理解していながら、それでも彼は「時尾」と呼び掛けずにはいられなかった。血の気が引き白さの増した顔は結納したあの日のように綺麗で彼女なりの皮肉かとも思う。暖めてやればすぐにでも上気しそうな頬が錯覚なのだとしたらどんなによいか。溜まりの血は温りを失いかけどす黒く衣服を汚す。突き刺さった脇差は命を奪ったにしては余りに力無く弱々しい鈍光を放ち、抜いた所で緩やかに死骸となってゆく女をどうすることも出来はしないのだという事後の遣る瀬無さだけを残していた。
素手で頬を撫でる。温かくも冷たくもない。産毛の滑らかさだけが残っている。紅を落とした唇が鮮やかさを目立たせ、きっとそれが帰ってくる己の為だったに違いないと思うと心底馬鹿だなと吐露せずにはいられない。こうして己に撫でられるとは本人も想像もしなかったろう。彼岸花のような赤い模様は確かに映えるが、お前は紅を唇に乗せるだけで十分だとあれほど言ってやったのに。毒々しいほど目に付く真っ赤な装いなどお前には似合わない。まして赤がかさばり過ぎて黒くすら見えるのだから。
…ああ、自分の立場など解っている。そして因縁より付きまとう危険を覚悟の上で女は俺と契りを結んだのだ。予め想定された最悪の事態を免れただけよかったと思う。
ただ、今この身体から手を離すことだけは―
目が覚めた。どうやら夢を見たらしい。思わぬ醜態に笑うしかない。とてつもなく馬鹿げた夢だからだ。こんなものをみた己は気が緩んでいるにちがいないのだと思う。女というものはしたたかで機転がきき弱さの象徴かと思いきやとんでもない力を不意に発揮する生き物だ。一時は疎ましいとも忌んだが、残念ながら男というものはこれを業物のように愛でずにはいられないらしい。失うなどと考えもしなかったが、夢の中とはいえ例に漏れず己も冷静ではいられないようだ。全くもって情けない男だ、俺は。
時計を見れば明け方の四時、仕事を抱え詰め所に篭りきりだったが明日は十時から出勤すればよい。もう一眠りするか、それともたまには時尾と勉の顔でも見てくるか…しばし考え結局の所苦笑しつつ詰め所を後にしたのはいうまでもない。