彼女と彼のボーダーライン

これはどっちが先だったのだろうかと彼女は三度目のデジャブで思案した。
彼が先か彼の人が先か。あれは果たしていつのシーンだったのかと。一週間前なのか一年前なのかどうにも霞んでいて思い出せない。ただどこでと聞かれればきっと閉まった店のシャッター前で、‘どこぞの誰か’と‘彼女’は、今日日の様に雨宿りをしていたという記憶映像を、自身の海馬から即座に拾えた。

…たしかあれは、商店街というには店の密集率が異様に低く、また住宅街と呼ぶにも灰色のシャッターがちらほら見受けられる奇妙な界隈だった。
大雨の上、昼の2時過ぎという半端な要因のせいか、もしくは、これらを包容する街自体が彼女と彼を取り巻く状況に一種の結界でも張っていたのか、その空間には二人しか人間が存在しえないような錯覚を覚えたのは確かだ。ただ雨はざあざあとアスファルトを穿ち、白々しい道路は舗装したての頃の鮮やさを一時的にだが取り戻している。ミクロ単位で賑やかに波立った水膜を貼付けた地面は幾重にも横たわり、深夜に砂で画面を占められたテレビみたいな音を立てて雨以外の存在を掻き消す。当の雨もあくまで流動的な滑らかさを持ってして道路の小さな凹凸に流れ込み、降り続ける限りはただひたすら水の溜まりをいくつも生成し続けるだけ。ただそこに在るだけで彼女と彼の存在を周りから切り離し、疎外感すら与えうる。そしてまんまとそういった世界環境に置いてけぼりを食らった彼女は、普段は綺麗に舗装されたように見える道も実は案外平坦ではないのだという普遍的且つ何の役にも立たない結論を導きだし、一向に「止む」という変化の兆しが見えない環境を恨んだ。

恐らく’彼女’はそこで’彼’と雨が止むのを待っていた。愚痴り合う、とはいってももっぱら彼女が一方的に口だしをしているに過ぎないが、単調なようで変調な雨音にすっかり調子を狂わせてしまったのか、話し始めて数分後、いつのまにか二者の間を仲介していた言語空間から言葉の行き来が停まってしまっていた。雨の音が五月蝿過ぎてろくに会話出来
ない状態に閉口してしまったのか、ただ気がつけば、これっぽっちのよそよそしさもばつの悪さも無く、彼女は無言のままただ早過ぎて幾重もの線にみえる水縞の走った家並みをぼんやりと眺めていた。何をするのか、何をしなければいけなかったのかを失念してしまったように。

「全く雨ほどうっとおしいものはないわね」
頭を上げて天を見やった彼女は当分は煮凝り色を変えそうにない空模様に漸く愚痴を零した。
巡回時間を普段より早め、周りの動向の残余軌跡を昼の段階から辿るのが目的だったが、生憎の雨でその作業もここで中断となってしまった。こちらも敢えて昼間に動くことで他のマスターを牽制し釣る採算もあったが、もはや一人の優等生演じる女の子としてはそれどころの話ではない。察しの通り大雨をずぶ濡れになりながら走っていくみっともない姿をクラスメイトに目撃される由々しき失態だけは回避しなければならなくなったのだから。そんな彼女らしい文句に彼は慰めにもならない言葉をボソッと返してみせるのだ。
「まぁ実際の所君の言ううっとおしい雨が降らなければ生き物は生きていけないのだが。」
にべもない台詞で彼女はややアンニュイな感情を台無しにされ、この無粋な男に腹の内で毒を吐いた。いつもならばもう少しマシな、いや、今とは別の趣向で性質の悪い台詞をぶつけてくる彼なのだが、珍しく世界を思いやる英雄らしい台詞を零してみせたので、正直な所彼女はやや戸惑ったのだ。何か雨にでも思い入れがあるのだろうかと首を捻りつつ、もう少し彼の心理とやらを探ってみようという好奇心がにょっきり頭をもたげた。
「確かにそうだけど、残念ながら今の状況とはあまり関係ないわねそれ。」
感触を確かめるようにあくまで軽く彼の言葉を否定し、続ける。
「世界の人の八割が飲み食いに苦労しているだとか、確かに放って置くことが出来ない一つの問題だけれど、今私が解決すべき最優先の問題には残念ながら成り得ない。そんなことを言うなら今こうしている時間ですら人は死に続けて
いるのよ?冷たいだろうけれど出来る限界を弁えないと。だいたい今の自分で手一杯だってのに。」
対して彼は意外そうにむっとした表情をみせた。だがそれは彼女の言葉を真に受けてのものではなく、彼女が真っ当な答えを返して来た意外性に対してというべきか。
「君がまともに取り合うとは思わなかった。」
彼は答えた。
・・・さてどうくるか、彼女が幾通りもの対応を瞬時に構えた隙に、それを上回る一声をもって彼はこの会話を呆気なく終了させてしまったのだった。
「知っているさ。たまにはこういった趣向の会話も良いかと思ってね。なに、別に特別な意図はない。」
途端、彼女はからかわれたことを悟り頬を膨らませる。そしてやり場のない憤りを今度ばかりは腹に溜めることなくこれ見よがしに独り言としてわざとらしくつぶやいてやることにするのだ。
「こんなむさ苦しい誰かさんと一緒に雨宿りする羽目になるなんて、本当に雨ってうっとおしいわね。」
「大体天然パーマの人は雨なんて天敵よ」
「そう、雨降って傘忘れたなんていったら最悪じゃない。濡れたら風邪ひくわよまったく。」
そうやってぶつくさ嘆いている彼女を隣の彼はさも愉快そうに眺める。まるで彼女の愚痴をごまんと聞かされることこそ最上の至福だといわんばかりに。そうして彼は当分途切れることのなさそうな彼女の文句を耳触りの良いBGM替わりにしつつ、おもむろに肩に掛けた聖骸布のズレを彼女に気付かれぬようそっと直したのだった。

―気がつけば彼女の頭上には彼の腕を柱にして赤い布が屋根代わりに張られ、とうに視認出来ないほど無限に見える水滴から彼女を守っていた。いつからかはわからないが彼女自身は全くもって濡れていなかったから、恐らく雨が降り始めた時点からきっとそれはあったのだろう。彼が彼女を守るのは当然で、彼女は彼に守られるのも当然、詰まる所この状況は両者にとって取るに足らない当たり前のシチュエーションにすぎないはずだった。気遣いは役割、よってこれは彼女が差し当たって彼に感謝すべき事項ではない。当たり前という境界が上にも下にも動かずに、二人をある絶対領域に固定するのだ。空から落下する空気中のH2Oですらきっとそれを動かせはしないだろう。
やがて口をつぐみ、光彩に線を、鼓膜に音を取り入れる事に飽きた彼女はとりたてて向けるべき顔の方向性が定まらないのか隣人を視界にふらりといれた。相手はやたら背が高くその差は30センチ余りにもなろうか、プラス20センチと離れていない距離では口元しかろくに写らない。が、暇を持て余した彼女には隣人の横顔の一部ですら彼の状況を推察するに充分な情報と成り得た。

一つ、彼は濡れている。
一つ、彼は外を見ている。
一つ、何も自分からは話さない。

以上の結果から彼女は更なる検証を試みる。当然この天候だから彼はずぶ濡れだが、そういえば当の自分はちっとも濡れてはいない。何故か、とそこまで考えて漸く彼の腕が彼女の傘代わりをしているのだという状況を把握する。確認した訳ではないが安易に想像は付いた。それでも彼女は念の為にそれは『予測』に過ぎないということにしておき、一呼吸置いてこの現状を再確認するべく改めて傘の天井を見、結果即座に予測が正しい事実であることを実証してしまう。ついでに、服に染み一つないのは乾いたからではなく降り始めから傘があったからに違いないだろう。
そこで一旦思考を区切り、もうどのくらいその腕は微動だにしていないのだろうかの推察を更に試みた瞬間、下手すれば自分達はくだらない雨宿りで一時間近くは時間を潰しているというとんでもない事実に彼女は即刻行き当たった。「時は金成り、何でこんなとこで私ってばぼけっとしてたんだろ」そう思考に直結させるのが彼女の本来辿り着くべき正しい結論であったし、事実唖然として彼女は目を二、三しばたかせたのだが、何故か「よくそうやって腕を延ばして疲れないなコイツ」というくだらない事実も頭にストンと落ちてきてしまった。疲れるような事をして、しかもそれを彼女には言わず、たった今ですら彼女が自分から動き出すまではこのまま傘代わりを継続するつもりであろう彼の行動倫理を。だが、こう言ってしまえばにべもないが、サーヴァントとしてマスターを優先し自らを盾に矢面に立つのはある種当然ではないのか。些か出来過ぎではあるが、彼が濡れようとそれはマスターの気に掛ける所ではないには違いない。
『だってのにこれじゃまるで私が気にしてるみたいじゃない』
即座に自嘲し、ふと脇に逸れた思考に馬鹿馬鹿しいと彼女は呟いた。
呟いて再び彼をみる。
相変わらず表情は窺い知れない。窺い知れないが、白い髪が頬に張り付き洗髪後のように毛先から水玉が浮いては重力に引かれ落ちていくのは確認できた。一メートルあるかのないかの屋根幅では斜めに差し込む水気に彼自身の身を守るはすべはないのだろう、立てられた髪の向きすっかり洗い上がりの方向へ下ろされてしまっている。その姿は傘を忘れて一人黙って濡れながら帰る子供の様で、不意打ちの如く酷く幼い印象を彼女にもたらした。
こんなに長い間忠犬みたいに控えているのだから身体はきっと冷えているに違いない、それは少々可哀相だからいい加減帰ろうかと思い始める。帰って紅茶を淹れさせ、気を取り直して今日の成果にごまんと文句を足れてやればいいわと。
そうしてそれを決意するのにまた数刻掛かってしまい、結局彼女はまた馬鹿馬鹿しいと呟くのだった。

またある時、土砂降りの雨の学校帰り、半ば脅すように彼女は同級生の男から傘を拝借した。ただし実際は拍子抜けするほど彼はすんなり彼女に傘を差し出した訳で、彼女がたくらんだ嫌がらせは失敗に終わったのだが。
相手の反応の悪さにつまらないわねと彼女は一人傘を差し、校舎の吹き抜け口からパチャっと足音をたて校庭に踏み出す。小さな水しぶきを上げ何歩か進んだ所で彼が未だに校舎のヒサシから動く兆しがないのことに気付き、彼女ははたと歩みを止めた。周りには誰もいない。かろうじて静まりかえった校庭と、たまに校舎から聞こえる吹奏楽の音色が学校の放課後という閉鎖空間に残響しているだけだ。それもこの雨音で大半が掻き消されてしまっているのだが。
別段仲がいい訳でもない。ただ、彼が彼女の絡みをすんなり流し吹き抜けで留まっているものだからなんとなく放ってもおけずスタスタと数歩前まで戻り「何してんの?さっさと帰るわよ」と声をかけたのだ。が、相変わらず彼は彼女に付いて歩きだそうとする気配はなく、それどころか彼女の背中を見送ろうとするけらいがあった。
「俺は雨が止むまで待ってるから遠坂は先に帰れよ。」
そう言って彼は彼女に帰宅を促す。対して当然の如く彼が自分に付随併行するものだろうと考えていた彼女はわけがわからないとばかりに目を丸くしてみせる。返された言葉を反芻し、仕切り直すように上体を軽く正して彼を隙間無く観察、と、何かに気が付いたのか目尻を引っ張り上げたように吊り上げて一言
「あんた、傘一つしかないのに私に貸した訳?」
と彼に疑問を投鏑して寄越した。彼の事、無償で自分の傘を人様に貸すなんてことは想定の範囲内だ。だというのに彼はまるで取り違えているのか「俺は今日バイトないし、夕食までには止むらしいから遠坂急いでるなら先に帰れよ。」
とのたまってみせたのだ。
当然彼女は噛み合わないやり取りに拍子抜けし、コンマ0.5秒後、呆れ1苛立ち5の割合でこね合わせたような表情を形成する。それでも尚人目を気にしての自制心からか片方の目尻を下げたものの、むしろ余計に鬱憤のレベルを上げたようだったから、相対する彼は内心の焦りを隠し留めて一応の釈明を試みるのだが。
「まだ一成が生徒会の仕事やってるから俺はあいつと一緒に帰るよ。その頃には雨止んでるだろうし。」
とっておきの生徒会長を盾にした―実際友人は彼に一緒に帰らないかと声を掛けてきたわけだが―弁解空しく「却下」の一言であっさりと薙ぎ払われてしまうのだった。
こうなるともう彼女は止められない。彼は次に襲い来る攻撃と口撃に備え迎撃体制を取るも、彼女の方が悲しいほどに上手である事実を次の瞬間再認識せざるを得ない羽目に陥る。
左手首を掴まれ、ぐいっと引っ張られる。合気かそれとも投げか、踏ん張ろうととっさに足に力を入れてはみたものの、水平方向に力が掛かり、ものの無残に頭から地面へダイブした。
―うおっ!
しかし頭が地に着く前に当然反射で右手がつっかえとなり泥塗れをなんとか免れる。
更にはなにすんのさと抗議を唱える間も与えられず、片手腕立ての姿勢から膝を前に曲げ立ち上がればまた容赦なく引っ張られ、揚句に「走るわよ」という唐突な命令を突き付けられるのだった。
次のカウントで、犬を従順にする調教師のように有無を言わさぬ絶対服従の青い瞳が彼の視線を捕らえる。魅了の魔術でも使っているのかと言わんばかりの意志の強制は彼の反抗心をナメシ革の如くぴしりと仕付け、もはや条件反射の域で彼の行動を制御コントロールするのだ。

「なんでさ!敵でもいるのか!」
「違うわよ。」
「ならなんで走るのさ!」
「雨が降ってるからに決まってるでしょうが!」
「だから雨と走る事に因果関係はあるのかと聞いているんだ俺は!」
ギャアギャア喚きながら追従する羽目になる男とそれを問答無用で先導する女。パシャパシャアスファルトをやけくその様に踏み付けて、横に流れる景色を前から後ろへ吹き飛ばす。
なんでさ、うるさいわね、概ねそんな会話を繰り返していた二人だったが、雨のせいか言い合いの半分は降水音に食われてしまい、結果として闇雲に聞こえているとも分からない文句を叫ぶだけの応酬に収束していく。同様に二者間の、正しくは理不尽極まりない一方的な戦火も大量の雨水でいくばくか鎮火されつつもあった。

恐喝されて、質問されて、怒鳴られて、わけもわからず走るかと思えば今度は急に転びそうになって彼女が急停止したことを知る。
「あんた馬鹿ね」
彼女はいきなり立ち止まるや否やよろめきかけた彼にとんでもない暴言を言い放った。言われずとも鈍感なのは彼も理解しているが、原因がわからない以上その言葉はやはり彼には理不尽に聞こえ、憤りを感じてしまう。大体全く彼女の行動には一貫性が感じられない。傘を貸したにも関わらず怒り出して。
その内心抱いた疑問を射抜くような目が見通したのか、答えてやるわと言わんばかりに彼女はすっくと目の前で仁王立ちした。いつか夕日をバックに階段の踊り場で立ちはだかれた時のように、その威力は灰色の背景だろうと落ちる気配はない。
「衛宮君てさ、傘一つしか持ってない癖に私に貸すなんて馬鹿でしょ。」
言われれば当たり前の思考性だ。『君』ずけした彼女の琴線に恐らく彼は触れた。
「用意のいいあなただからてっきり傘二つ持参してきたのかと思えば一つっきりの傘を私に貸して。」
水を含んだワイシャツが熱を奪い、客観的な言葉と合い成って彼を心なしかひやりとさせる。体感温度も秋雨のせいか下がり、服を透過した水分がまだるっこく地肌に張り付いて削ぎ落とせない。彼女の指摘のように。
それでも彼は容易に主張を変えない。半ば買い言葉の如く
「困ってたら貸すのは当然だろ。」
と、そんな風に即答するのだった。

-はぁ
これには彼女も溜息をつかざるをえない。何せその答えは穴だらけだっていうのに彼は完璧だとばかりに言い放つものだから。あまりに呆れ果てて、雨に打たれたままの彼を彼女は軒下に引っ張っていくことにした。手首をむんずと掴んでツカツカと歩く彼女は恐らく少し前のめりで口を真一文字に結んでいる。きっとこうなれば意地でも彼女は正しい答えを叩き込んでくるだろう。
ただし相変わらず彼女は借りた傘をさし彼は風雨に晒されたままで。
「困ってたらあんたはそうやって片っ端から傘を貸すわけ?」
「自分は濡れて構わないの?」
一転しトーンダウンする声音。それは道徳的に見れば非ではない。むしろ逆だ。だが、人間としてそこに『非ず』はないのか?
「あんた自身が自分が濡れてもいいと思っててもそれは確かにあんたの勝手だけど、逆に考えたことないの?」
対峙する彼女の真顔に、彼はようやく自らの何が間違っていたのかちゃんと考えるべきなのかもしれないと自覚しはじめる。なんとなくわからないでもないけれど、そんな気がするだけで微塵足りと詰問される意図は不可解だ。だがその座標軸の違いこそが怒らせる本質だろうと察知し、彼は彼女の言葉を待った。
「天気予報を見ないで傘をもってこなかったんだからそいつは自業自得、わざわざ貸す必要ない。ましてあんたは本来濡れずに帰れるのに、本来濡れて当然な他人に傘を貸すことて自分が濡れることになんとも思わないの?」
当事者の私が言うのもおかしいけどと、小さく断りつつ彼女は続ける。
「あんたは赤の他人が濡れるのを嫌だと思う。同じ様にあんたが濡れるのを他の誰かが見てどう思うか考えたことある?」
「む、よくわからんが、遠坂は俺に濡れてほしくないって思ってくれてるのか?」
「!!!ななな、なんで私がっ!」
かつてない早さで即答即否定され、なにやらまた一つ墓穴を掘ったらしいと彼は困惑する。
だが彼女はそれっきり急に言葉を詰まらせたのか、肩を怒らせ拳をグーにしたままわなわなと小刻みに奮えだした。顔色をほのかに赤らめ、何を怒鳴り付けてやろうかと悩んででもいるのか。そのまま煮え切らない自身への中途の思いのたけをどう変換し切り返してくるのか、想像に難くはない。ならばせめて正面から受けとめようと彼は開き直った。

「…とにかくあんたみたいな馬鹿見てると腹立つのよ!」
溜めのあとに放たれた罵声は、どこかしかし、ごまかされたようないつもの彼女に戻ってしまっていた。どうやら簡単には答えを教えてくれないらしい、そう彼は解釈した。実際の所彼女は羞恥半分で肝心な部分を指摘しそびれてしまったのだが、彼が複雑な乙女心に気が回るはずもなく、その点だけは恥をかかずに済んだといえよう。
真面目な話、彼自身の感情としては、己の欠落を薄々理解しながら、だからこそいつか彼女に満足のいく答えを返してやりたいと思っていた。だから今はそっぽを向いてだんまりを決め込んだ彼女に内心すまんとだけ謝って、雨が止むのを待つことにした。機嫌を直してくれるかどうかは分からないが、こうやって散々言い合った後で二人ぼんやり雨宿りをするのも悪くないなと、不埒なコトを考えながら彼は彼女の横に並んでやや白みかけたの空を眺めた。

―あれはいつの追憶だったのだろうか。
今日も雨。
自分はそっちのけで濡れてる高跳びの少年がいて、それを見つけた少女がいる。
少年は相変わらず他人事の様に全身雨打たれ、自らを省みはしない。放置された身体ばかりがそこにあり、志だけは雨雲の彼方ほど離れているような、例えればそんな既視感漂う情景が目の前には在った。
立ち尽くした彼に魅入られ微かに躊躇したものの、彼女はある決意を固めて足を踏み出した。きっとたいしたことではないけれど、このまま曖昧な彼を放置して自らの境界すら知らぬまま理という普遍を侵してしまわれるよりは、遥かにマシだと思ったから。

「あんたは濡れてもいいと思うだろうけど、そんなあんたの姿を見てるの私嫌なの。」
声に振り向く彼。彼女の姿を見開き気味の目で視認し、次に降り懸かった彼女のサプライズに、やはり少年らしい素直な微笑みを零すのだ。
「あんたが人が濡れなきゃいいって思うように、私もあんたが濡れるのはやなの。そして自分が濡れるのも嫌。」

それは傲慢で贅沢な選択だ。以前に躊躇しうやむやにされたヒントが今になってパワーアップして返って来たような代物と言えよう。力ずくの手法で、しかし相手を嫌な気分にするどころか颯爽とした清涼感を与えてくれる彼女のやり口に不思議と巻き込まれてしまってもいいと思うのだ。たまにはうっかりがあるかもしれないけれど、なんだかんだで乗り越えていけそうな予感がする。
ただやっぱり、彼女の言葉を聞いてどう解決してみせるのか興味があるのは当然ともいいたいわけで。
『じゃあ両方濡れない方法は?』
そう聞いてやろうとするや否や、先手必勝とばかり傘を頭上にかざす彼女は、口を開きかけたこっちをみて、そうはいかないと言わんばかりに勝利の笑みを浮かべてみせた。
彼女の答えは簡単だ。傘に二人で入れば二人とも濡れない。至ってシンプルだ。
・・・ただしそれを言葉で迂闊に表現する事は、彼女と肩が触れ合ってるこの状況では気恥ずかしくて憚られることだが。

人に気を使い自身があぶれているのならば、あぶれた彼を私が見てやればよい。彼が‘自分自身’も救うべきあぶれた人間であるという答えを得られるまで。そのためには彼という曖昧な境界を外から傍観するだけでなく、私という人間が彼の境界に立ち入って滲んだ陵線を明確な実線にしてやらなければならないのだと思う。

雨はいつしか晴れる。
その後きっと見えるであろう空と地上を隔てる光のボーダーラインが七色に曲線を描くまで、
こうして二人して相合傘をするのも、
―きっと悪くはないだろう。

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