それは、夢のまた夢。夢すら見ない夢を見る―
まっしろな空間にぽやんとねている誰か。
そらもかべもじめんもしろで、ねそべる人の髪もしろ。
あかい血みたいな服とまっくろい服はハデハデでグロテスク。
古代人の墓みたいに石のいろした本がたくさんたくさんつまれていてあたまがいたくなり
そう。
よめばよむほど本が増えていく手品みたい。
でもどうせなら本じゃなくてひとの笑顔がふえればいいのに。
ここはほんとになにもない。
在るのは墓石みたいな本と、がらんどうのくうかん、がらんどうのからだ、がらんどうの
こころ…
その身体は放置された剣のようにずんと横たえられていた。しかしそれには存在というあ
るべき重さを感じない。確かに持ち上げようとすれば男四人の手が必要だろうが、下手す
れば子供が押せば簡単に転がせるのではと錯覚を抱く程、男は希薄だった。例えれば白い湯に浮かぶ泡沫の如く、消え行く自己存在率の均衡をかろうじて保っているように。
ようは簡単な話だ。男は虫の息だった。ゆるやかに死んでいきかけていた。魂も果たして
肉体に残っているのかどうか、長年かけてやすりで磨がれ砂の様に減っていったから原型
はとうに留めてなどいないだろう。釣り上がっていた眉は緩やかに下降線を描き、閉じた
瞼は深い眠りを貪るように長いアイラインで境界が引かれ、これが穏やかな表情なのだと
誰ひとりとして気付かせぬまま僅かに胸を上下させている。孤独はゼロ、ゼロはどこまでもゼロ、自分という一があれど自分すらゼロだった彼には終わりもゼロ、故に消える必然を悲しむ必要もゼロだ。元々感情も、そこにはなかったのだから。
もう長くはもたないだろう。摩耗したそれは色も匂いも喪失し、とうに死を体言していて。誰にも邪魔をされず、孤高な消滅を迎える。約束された結末、ほんの僅かなしぶ
とい生命力が意思とは関係なく終わりを引き延ばしているだけに過ぎなかった。
ただ彼にしては取るに足らない変化が息を引き取る数刻前に訪れる。一人静かに消えるか、‘看取られる’かという相違。感情さえ希薄な彼にしてみれば違いなどないに等しいが
、客観的にみれば状況は良くなったと言えよう。こんな現(うつつ)は夢だとしても哀し
すぎるのだから。それ故なのか、ほんの僅かに誰かが気まぐれでも起こしたかのように、白い部屋は初めて青と金の鮮やかな来訪者を迎合したのだった。
彼女はきらびやかで荘厳だった。金色の髪が一糸乱れなく結われ、必要最低限の、しかし
気品ある青の布地が彼女の身を飾り立てていた。光を発しているわけでもないのに、白い視界がその存在の発露によって眩んだほど。どうしてここに現れたのか少年には
わからなかったが、初めて見るその人は酷く彼の胸をこそばゆくさせた。
対して彼女から言わせれば。緩慢で白痴、言葉と理解が噛み合わない小さな子供がそこにはいたという所だろう。虹彩だけが側の少女に向けられ、少々の興味をもって向かい入れられている。勿論それ以上の疑問を持てる程の思考もとうに損なわれているのだが。
「きみはだれ?」
それが二人の均衡を破った台詞だった。少年は凄く久しぶりにしゃべるものだから舌がも
つれ唇もあんまり開かない。相手に伝わったかも危うい。
その聞こえたのかもわからぬ問い掛けに対して彼女は、にっこりわらって
「アルトリアといいます」
と答えてみせた。
取り分け読唇術だのを嗜んでいたわけでは無いが彼女にとってその少年の意思を汲み取るのは容易な作業だった。何故なら少年は素直に心の中身を表情に映し出す隠し事の出来ない人間だと一目で看破していたし、そもそも彼はもう覚えていないだろうが、かつて彼女は彼の剣でもあったのだ。だからこそ当然嫌になるほど彼の状況や状態も一瞬で理解してしまう。
故に沸き上がる感情を殺し、今はただ目の前にいる子供との会話に耳を傾けるのだ。
「アルトリア?」
「ええ、そうです。些か変な名前かもしれませんがそうよんでください。」
簡単な自己紹介を済ませるも、初めての来訪者を前にどうすればまるでわからないのか彼はそれっきり口をつむってしまう。視線を外し、あっちへ反らしたっきりの子供に、彼女はしょうがないですねと目を一瞬細め、こっちから話しかけようと覚悟を決めた。これではまるっきり立場が逆だと呟いて。
「ではあなたの名前は?」
「…」
「自己紹介というものは片方ばかりがしても成り立ちません。ですから今度はあなたの番ですよ」
「…」
こっちを見て困ったようにまたそっぽを向き、その仕種で彼女は彼が‘それ’すら欠落し
てしまっているのだと気がつく。予想以上に深刻だと彼女は眉をしかめたが、相手を不安
にしてわならないと眉頭を緩める。こうやって一つ一つ尋ねれば尋ねる程、彼女は言葉に
詰まらぬよう極めて私情を殺さねばならない羽目になると予感するのだ。歪む表情を見せぬようこちらが配慮せねばなるまいと。
「では貴方はシロウ君だという事にしましょう」
告げるや否や安堵したらしい彼を確認する。込み上げたまた一つの想念を悟られないよう飲み干して。
「シロウは寝ていたのですね。起こしてしまい申し訳ない」
「もう少し寝ていたいのならば私が側にいますから膝を枕代わりにして寝てください。地
べたに頭をつけて寝たのでは寝心地が悪いでしょうから」
それにいや眠くないと双瞼をぱっちりと開いてみせる少年一人。けれども微動だにしない
肢体が、瞼を見開く動作すら最後の力を振り絞った少年なりの気遣いなのだと知らせてい
た。
人を看取るのは慣れている。人が沢山彼女の周りで死んだからだ。王として生きた以上、それが当たり前の宿命だった。ただ実際は悲しみを隔離し、公の場では慰霊の言葉より次の戦略を重視していたのだが。それでも戦場では仲間を腕に抱え、死に際には栄えある最期を讃えた。嘆くなかれ、汝は役目を果たしたと。悲しむなかれ、いつかまた常世の理想郷であえるのだから、そう言い聞かせて。
誓いを胸に、いま彼はここに到達した。
―だが世界は反転した。例え遂高な目的であろうと人となりが願えば歪小な欲望に過ぎなくなる。人は人を超越した不相応な願望を目指してはならないと。それが真理。願が綺麗であれ、彼は不相応な夢を抱き、叶える為に世界とまで取引をした。なんと真っ直ぐで傲慢なことか。
されど、今ここにアルトリアがいられるのは、紛れも無く―
ならば、と彼女はちょっとした昔話を語ろうと思った。やり切れない終息を間近に控え、
ただ与えられる物は、寝付けない子供へ子守歌のように優しく力強い物語を聞かせてや
ることだけなのだ。
「眠くないのならば何か話でもしましょうか。」
問うまでもなく、彼自身から語れるものはなくなっていたから、代わりに彼女が彼の話を
してあげようと至るのはある種当然か。その髪に触れ、彼がこちらの口元を注視したのを
皮切りに彼女は一つの物語を話し始めた。
むかしむかし、あるところにアーサーという少女がおりました。
少女は国を守るために選ばれし者だけが掴めるという剣を抜き王様になったのですが、少女の願いに反して国はやがて戦争であふれてゆきました。少女は戦争を招いた自分に絶望し、自分が王様にならなければよかったと後悔しました。そうして後悔したまま死にそうになった時、彼女は一人の少年と出会ったのです。
彼は偶然にもある戦争に巻き込まれた一人で、遠い神話の世界に住む少女を偶然味方として召喚しました。そもそも彼の巻き込まれた戦争は、選ばれた魔術師七人が異世界から召喚した味方と一緒に他の選ばれた魔術師たちと戦い、願いをなんでも叶えてくれるという聖杯を奪い合うという惨いものでした。過去より幾度と行われ続けている戦争で、元凶である聖杯を壊さなければ決して終わらないいわく付の争いだったのです。彼は以前起きたその戦争で親を失った少年で少年自身も死にかけましたが、運の良いことに彼女が持っていた最強の鞘を体に埋め込まれることで生き延びたのです。
願いをなんでも叶えてくれるという聖杯は召喚された少女にとってはまさしく魅力的なア
イテムでした。何故なら手に入れれば少女はもっと素晴らしい王様を選ぶという願いを叶えることが出来るのですから。ですが少年は逆に、願いを叶えてくれる聖杯があるから戦争が起きると知り、聖杯に何かを望む処か聖杯を壊そうと誓ったのです。
こうして少女と少年は聖杯を手に入れる為協力するのですが、だんだん考え方の違いから言い合いをするようになりました。ですがそれはお互いが大事だったからこその喧嘩でした。少年は彼女が決して愚かな王ではなく、責務を全うした立派な王であり、彼女の願いが彼女自身を否定すると気がついていたので願いは間違っていると訴えました。彼女も少年の生き方を見るうちにやがて自分の願いこそが愚かだと気がつき、少年の為に聖杯を壊そうと考えるようになったのです。
願いを叶えようとする者の間で争いは続きました。不死身の巨人や投げた槍は必ず心臓に刺さるという槍使い、ユニコーンすら乗りこなす魔眼使いや死者すら蘇らせるという魔術師も。少年は争いの中幾度も死にかけましたが、少女と力を合わせ聖杯に近付いていきました。初めは魔術を全くといっていいほど使えなかった少年でしたが、やがて数多の名剣を生み出す魔術を覚え、魔眼使いや不死身の巨人を打ち倒していきました。そしてようやく聖杯を手に入れる直前で、彼等の前には数多の武器を持ち、星すら切断するといわれる剣を持った男、古に英雄王と呼ばれたギルガメッシュが立ちはだかったのです。
ギルガメッシュに勝利する為に少年は体から鞘を取り出し本当の持ち主である彼女に返し、二人はギルガメッシュと最後の戦いに挑むべく聖杯の元へ出向きます。少女はギルガメッシュの使う剣に敗れそうになりましたが、少年から返してもらった鞘で、ギルガメッシュを打ち倒したのでした。
こうして二人は戦いを勝ち抜き、全ての争いを引き起こしていた聖杯を壊したのです。長く続いていた戦争はこれをもって終わり、平和がようやく訪れたのです。
ですが、それは分かりあえた少年と少女の別れでもありました。お互いに仲良くなった二
人ですが、少女は元の世界へ戻らなければなりません。それがこの戦争の最後のルールだったからです。勿論悲しかったのですが、二人は一緒に戦えたことが何よりの宝だったので、最後は笑って別れたのでした。
…元の世界に戻った少女は自分のやってきたことが間違ってはいなかったと満足し、安息の眠りを手に入れて。
話を終え、軽く息を吐き呼吸を整える。どんな反応がくるのか、いや、反応自体余り期待もしていなかったのだが、開口一番少年はつぶやいた。
「その子はかわいそうだね」と。
まず反応が返ってきたこと対して彼女はあっけにとられたが、口を挟む間も無く少年は続ける。
「だって、好きな人となんで別れないといけないの?それに戻ったら死んじゃうのに。」
シンプルなその感想に、彼女は思わず息を飲んだ。彼が全うな思考を取り戻していることなどもはや焦点にはならない。むしろその発言の内容が注目すべきに値していたことが彼女の心を打ったのだ。そして触発されたかのように彼女は自身の心にその思考分析回路を埋没させた。
丹念に記憶を手繰り寄る。いわずもがな彼の言う通り、そういった選択もあったのだろうと思う。だがそれを選んで二人が一緒になれたとしても、彼等は信念を曲げてまで手に入れる『二人だけの幸せ』が本当の幸せだとは露ほどにも思わない。むしろ敬遠するだろうと。
だが、彼の指摘はついぞ切り捨ててきた人としての感情を掬い上げてくれた。そして少年
の口から彼は可哀相だとついて出たことが、自身を哀れむことのない彼への微かな救済になればと、彼女は思った。その言葉自体はエゴに満ちた軽はずみな代物だとしても、少しぐらい欺瞞に満ちた言葉を最後くらいは零しても許されるだろうと思うのだ。
「確かにそれも幸せの形かもしれない。…だけれど一つ言い忘れていた。」
と、彼女は切り札でも思い出したのか謎賭けの答えを出し惜しみするかのようにちらりと笑った。やや間を取るもじれったそうにしている彼の姿を盗み見て、我慢できないのは自分の方だと痛感する。こんな風に見つめられたのでは出し惜しむこともできないではないですかと。
「別れたといっても心まで別れたわけではありません。それにその二人は結局再会出来た
んですから。」
それまで抑揚を抑え言葉を選ぶように話していた彼女だったが、この一言には仕舞いこんでいた匂い袋を開放したような情緒が隠し切れんばかりに溢れていた。そんな感慨深げに語る彼女をみ、彼もまた少し嬉しくなった。誇らしげなのになんだか悲しそうな少女がようやく心から暖かそうな顔をしてくれたから。
―あぁ、こんな顔は一体何時以来見たんだろう?
なんだかそんな気持ちが当たり前のように沸いてきて、少年は違和感を知覚する。
『何時以来』そう自然に浮かんだ思念を。確かにこんな綺麗な麗人に会ったことなんてな
いはずだ。少なくともこの部屋では。そもそもこの部屋に最初からいたのか、それともこ
の部屋に連れて来られたのかもわからない。だというのに心臓が痛いほど締め付けられて身体が彼女を覚えているだろと訴えている。
あたまがいたい。あったものももう圧縮されてばらばらになって原型への戻し方も忘れて
しまったってのに、ハードディスクに葬られた数年前のファイルを無理やり復元しようとしてるみたいだ。下手に復元したらシステムはエラーを起こして異常をきたすかもしれない。だけど、自分が彼女の知り合いなのだとしたら、思い出さないと失礼だ。
『おもいださないと。』
その意志を彼は自身の義務だと定めた。そして同時に彼は、自覚こそなかったものの、自己意識を持てるまでになるほど思考回路を取り戻しつつあった。顔の細かい筋肉を駆使する子供では作れない複雑な表情が滲み出るにつれ、彼は違和感の引っかかりを拡大せんと内面に潜っていく。
『セイバー』
思考をクリアにして名を浮かべる。強く念じて、念じて、彼女は来た。
『セイバー』
彼女は来た。どこに?
おれの元に。それだけで凄く嬉しいのはなぜだ?
「セイバー」
「なんですかシロウ」
即座に返事を返してくれるセイバー。いっしょにいるのが当たり前で、凛々しくて強靭で
。
その癖覗き込む彼女を見て、目鼻立ちやバランス、透き通った肌の綺麗さにドキっとする
。なのに自分より小さくて、からかわれると自分ではもっともらしい理由をつけて怒りだ
すのはたまらなく可愛い。
彼女と目が合う。その青い瞳に映った自分の姿を見る。馬鹿みたいに魅入られてる自分がいる。どこかで覚えのある片鱗が隙間から覗かせる。かつて見た映像、拡大して再生しようと手を延ばし、掴み取ろうと彼女に触れた瞬間、取り囲む淡白な世界が崩壊した。
色が見える。セイバーが笑っている。
なんで俺は忘れていたんだろう、こんな大事な物を。
「セイバー」
優しい笑顔でその名を呼ぶ。また会えた、それだけが何物にも変えられぬ彼にとっての極上の褒美だったのだから。言いたいことは山ほどある。だが、言葉など会えた瞬間から必要性を失う。いかほどの言葉をもってしても彼女に触れること以上に想いを伝える方法はない。そもそも生前の柵はとうに語るに落ちた。
あえて伝えるならばただ一言、世界の果てで、惨めに朽ちていく狭間のおりで、ただただ
「ありがとう」と。
力が抜け、まどろみが深くなる。
視界が歪曲し現実感がまるでなくなって、
しろいもやが夢と現実の境目すらなくしていき、これが永遠の安息だと、彼は受け入れた。
「士郎、貴方は役目を成し遂げた。」
ならばしかるべき報酬が与えられるべきだと彼女は告げる。
「私は貴方の剣、この座から貴方を見守り続けよう。」
則ち。
―輪廻の渦に戻りなさい士郎、貴方はここにいるべきではない。
それが、彼女が世界に望んだ人としての願いだった。
目が覚めた。
それは有り得ない夢。夢にすらならない幻、まどろみの底辺に堆積した妄想。
故に救いは無く話もこれでおしまいだ。
殺人狂の王様が何人目かに向かい入れた妃に毎夜話を聞かされ続け、終いには話に夢中になってしまい妃は死を免れたという、あの御伽噺の一つだとでも思ってくれればいい。
些か面白みには欠けるが暇を潰すにはちょうどよかったろう。
何、いずれ繰り返す話だ。運命を皮肉る奴もいるが、自ら望んだのだから多少の不満には
目をつぶろう。それよりも今は、
―また彼女に出会えるという運命の輪に祝福を。