確かにまだ何も知らなかった頃は胸をときめかせたり痛めたりと自制節度に些か欠けていた。だがしかし作られた者といえどそういった思春期を過ぎ大人になれば流石にたいていの事象にも呼吸を乱す事なく取り繕うことが出来るようになっていた。例えばお互いの仕事中にばったりと兄弟に出くわしてしまった時などは赤の他人として無関係を装えるくらいには。
「あらキング」
上流階級の社交パーティーでラストに鉢合わせしても、奇遇を装い「お久しぶりです、ミスソラリス」と返事を返すのはここのところ月ごとの習慣になっていた。兄弟の仕事ぶりに興味はさほど無いがラストはどこぞの将軍の愛人としてしめやかにパーティーの人波を分けゆったり歩くのが趣味らしく、男のエスコートを断っては始終微笑んでどこぞの話の輪に加わったりしていた。恐らく優雅なライフワークとは裏腹に抜目なく噂話を拾い集めては取捨選択し父上に報告を入れるのが最近の仕事なのだろうが。…幸か不幸か上層部がこの暢気な一人の女をそれとは知らず”掛け持ち”しあっているという大醜態を社交界のマダム達はまだ嗅ぎ付けてはいない。勿論この場に於いて、ソラリスという情婦により武功を欲しがる将軍位達が地方でドンパチを繰り広げているという裏事情を知っていたとしても何の利益も得られはしないが。
享楽に耽る社交界はいわば中央情勢の鏡、絶大な安定感を誇るも陰りを潜めるように盛大な楽団の音が響くホール内は、どこか不穏な時事変化を象徴しているかのようにも見えた。
「ミスターブラットレイ、貴方の評判はよく耳にしているわ」
どこまでも他人行儀に話を勧めようとする女が一人。中央を掌握するのが自身の請け負った役目ではあるが、現段階においてはただの一兵卒に過ぎない自分のサポート役と出世するまでの身代わりをかってでたラストに無下な返事を返すことなど出来ない。例え聞き飽きた常套区を耳に蛸ができるほど繰り返されるとわかってはいても。
「上の方々にもそのうちお目通りが叶うかもしれないわね。是非貴方を娘婿にと、愛娘を将来のファーストレディーにと、ね。」
「持ち上げていただけるのは嬉しいが半人前の私を過剰評価しすぎでは?」
「いいえ、必ず貴方は昇り詰めるわ。それがきっと運命だもの。」
言い切る自信がどこまでソラリスのつもりなのかはわからない。ただ、運命は切り開くものではなくすでに決められているものなのだとしたら、彼女は後者のニュアンスで言ったのだろうが。
「一人でいる方がまだ楽しくてね」
「あら、人生女という疎ましい存在を側に置いて過ごすのもなかなか刺激的で飽きないものだとは思うけれど」
「幸せに出来る程の自信がなくてね。物騒な戦場を駆け回る男よりもいい男はいくらでもいる」
「その言葉、聞き捨てならないわね。幸せとは貴方が与えるものではないし貴方が相手を幸せそうだと判断するものでもないわ。貴方が例え酷いことをしようと、相手は貴方が一瞬でも側にいてくれれば幸せと感じるかもしれない、いうなれば”推し量れないもの”よ。」
「…ミスソラリス、貴女は非常に難解なことをいう。奥深いように見えて解釈を変えれば辛辣なコメントとも取れる。」
「あら、貴方を励ますつもりだったのだけれど気分を害したかしら?」
「…いや、おかげで痛い所を突かれて少々ばかり現実を見ようかという気になったよ。生憎この性格では貴婦人方と触れ合う貴会がなかなかなくてね、貴女のおっしゃる通りたまには美しい女性と踊るのもいい余興かもしれない」
首を振り軽く肯定する。これ以上会話を続けてもどうにもならないと一瞬の瞬きのうちに判断すると機嫌を損ねぬよう彼女の振りたい話題へと誘導しつつ話の観点を若干逸らせる事に専念した。
”貴方が例え酷いことをしようと、相手は貴方が一瞬でも側にいてくれれば幸せと感じるかもしれない”、裏を返せば男が殺人鬼と知らずに付き合うような女なら幸せを感じてくれるとでもいうのだろうか。そして上流階級ならば世間知らずの娘などごろごろ存在するから利用できるという点で”結婚するに相応しい女”と呼べると。金に困らず生き方も将来も決まっていて地位と名誉位しか自力で手をに入れられる物は残っていないという現実、女や酒という享楽物で紛らわせられる性格だったならばこんなに息苦しくは感じなかったろうに。これから歩む行程ににほんの少しの自己決定権があるとすれば、せいぜい美味しい紅茶を選べる権利くらいか。
…の娘はどうかしら。器量よく温厚だとか。一言口添えしておくから気慣らしに挨拶でも…
言葉が鼓膜を通り抜けても認識として捕らえられない。怪しまれない程度に相槌を打ってはいても自らの思考に取り留めなく現を抜かしている方が気楽ではあるのだから。ただ自己閉鎖的になっているからこそ、針の筵とまではいかないがお偉い将軍方からの、ソラリスを独占しているという羨望と嫉妬に満ちた視線が自分へと差し向けられている状態にはそろそろ飽き飽きとしてきた。幾度となく要らぬ俗物的な疑いを掛けられては来たが、いくら他人を装っているとは言え、姉弟とそのような疑惑を持たれるのには心象をやや捻じ曲げられたと言わざるを得ない。
「あまりに貴女を独占していると他の紳士がたから嫉まれそうだ。心使いに甘んじて私もそろそろあちらの婦人方とお茶話でも」
これほど滑舌なラストも珍しい。だがそれにいつまでも付き合い続けるのは流石の私も気が参ってしまう。内心生ぬるくなりつつも茶目っ気たっぷりにやや媚びた細目で彼女に待ち構えた男達を相手するよう促すと、漸く周りの誘惑に満ちた男たちの視線に気がついたのか、「あら、皆さん」と手を差し伸べた。色欲だけにその類には敏感なはずなのだが、即ちそれだけ彼女は弟の将来に、正しくはお父様の計画遂行に熱心だという訳だ。
そんな状態だから例え気乗りせず口うるさいからとはいえ、ようやく出世の為の奥方選びに着手しようとしている末弟の態度をありがたいと捕らえたのだろう。色欲という女は”自身の感情”が如何なる物であろうと”決められたことそしっかり遂行”しさえすれば一切口を挟まない性質だ。ある意味”超越した人”なのだろう、この人間に近い憤怒という存在の精神状態を認識してはいても傍観者的立場しか万事を処理しない色欲はこの末弟の精神面に関知介入しようとはしなかった。
数多の貴婦人が口元を隠し笑ったろう?
嗜みを伴う仕草に過ぎないのだが、げびた印象を受ける。想像するに上流階級と言えど妙に知識を身につけている分彼女らは好奇心が強く、それを大いに発揮するのがこういった”人間査定の場”や”お茶うけ話”というわけらしい。度の超えた詮索を受け流し、幾人かと言葉を交わすうちにどこかしら薄ら寒くなっていく唇を感情とは真逆に甘く型成す。知識があるとはいえ軽薄さに掛けてはそこらの花屋娘の足取りよりも軽い者が多いと見えて、出身の謎めきがマイナスになるどころか逆に興味を沸かせ、隻眼と勇敢な戦歴とが相成ってほんの一時間で若い娘達の話題を彼がかっさらったのはいうまでもない。その頃になれば彼も空で歯の浮いた台詞一つ二つを文句に挟み唱えられるようにはなっていたが。
「ちょっと失礼」
取り囲まれた輪を抜け出し鬱積した気持ちを抱えたままウェイターを呼び止めようと雑踏へ身を紛れこませた。誰しも一度は抱く他愛もない心情だが人を持ち上げやや色めき立った婦人の群れにはうんざりしかかってもいたのだ。人を探す振りをしてそのまま人波の一部になってしまえることが出来ればどんなに気楽かと気重になるのは社交慣れしていない若人の感情としてごく当たり前の物かもしれない。そんな状況の中、ただ少しでも知った人間の顔が見たいと彼が彼女の姿を無意識で追うのもある意味当然ではあった。例えろくな慰めすら期待出来ずとも、多少なり本音を吐き出せるその微笑を求めておぼつかぬ足取りは無意識的に心持ち足早になった。狭い視界に篭る沢山のざわめき、その中に確かに存在するワントーン落ち着いた声音を探り当てる為さ迷う男。
そうやってどのくらいホールを歩き回ったのだろうか?目の前を横切る初老紳士、不意に立ち止まられぶつからぬよう身を退けた瞬間、青年はほんの少し右へずらした視界にあの微笑みが映ったのを見落としはしなかった。そばだてた耳から”見えた”口数の少なさが彼女にしてみれば珍しいとも思ったが、さして特別な事例でもあるまい。幾分か穏やかそうに繰り広げられているであろう会話を妨げるのも致しかたないと彼の振り切れそうな精神状態は判断したのか、人壁の向こうにいるともしれぬ女へと救いを求めた。
「ミスソラリス」
後ろめたそうに囁かれたかの名前は、傍らの人間にすらまともに聞こえていたのかわからない。…ただ、掻き消されたはずの名前は確かにその女を振り向かせる充分な効力を持ってはいた。
背を翻し混雑の割れ目から顔を覗かせてくれた、その見慣れたはずの女を。
「すまない、人を間違えたようだ。」
意に反して次に彼の口から突いて出たのは謝罪の言葉だった。あろうことか彼は探す相手を間違えたのである。一瞬怯んだ彼の瞳に飛び込むどこか重なる微笑み、細目で厚ぼったい口元、違うのは拭い切れない人工物の寒々しさが払拭されているという点か。直ぐさま視線を離せば良かったものを、姉とはまた別種の瞳色に人知れぬ興味の芽がひっそりと芽生えてしまった。 「人を探していたのだが…」
見るからにおっとりしたラインで構成された出で立ちが無防備さを容易に連想させ、心なしか気が緩む。よくよく見つめれば髪はブロンドのストレートで目頭から目尻へかけて緩く下ったアイラインは勘違いしたとは信じられぬ程姉とは似ても似つかない。ただ声を掛け何秒もたたない内にその女の無自覚な引力に不思議と足を留められずにはいられなかった。
「よろしければこの後一緒に踊っていただけませんか?」
そう言葉が出た。
どこからそんなフォローが咄嗟に回ったのか知る由も無く、ただ勘違いの気まずさを払拭する為のものだと自ら思い込ませた男の誘いに、彼女は―
面識もない初対面の相手に踊る相手の選択権も彼に与えられたほんの僅かな自由であるということに気がついたのかどうか知らない。安らぎと、微かに抱いた憐憫の情をただ選んだに過ぎないとしても、それを手に取ってしまった時点で彼は冷酷でありまた甘い男なのだと色欲は思う。彼は今後とも致命的なミスを冒しはしないだろう。だがそもそも彼が存在してしまった事自体が、自分達にとって正しい選択でありまた致命的でもあるかもしれないとも想像してしまう。
ただ何にせよ…”決められた運命”からは逃れられられはしまいのだと彼が自ずと気付くまで私は彼を見守り続けようと、そう思いながら彼女は宴の園を後にした。