警視庁―
大警視川路利良は机に並べられた書類から一枚の紙を引っ張り出すと
側の者に藤田五郎を呼ぶよう命じた。
藤田五郎は川路がその才を見て自ら密偵として警視庁に引き込んだ男である。
腕は確かで、また文句一ついわず勤めを果たすことから自然と多用していた。
程なくして藤田が現れ山路の前へやってきた。
「川路さん、なんでしょうか?」
相変わらず無表情で仕事の内容を尋ねてくる。
その仕草だけは気に入らなかったが、なによりその裏に隠されている信念は偉大である。
それを横目で見ながら川路は一枚の紙切れを藤田へと手渡した。
「要人警護の任務だ。期間は一ヶ月。詳しいことは全部そこに書かれている。
軽く目を通しておけ。」
目の前に掲示された紙を左手で受け取ると、藤田は書類へと目を移した。
静かに字を追っているが、その顔からはまるで感情が窺い知れない。
だからこそ今回の件においては川路は不安だった。
・・・この男が今更何かすることはなかろうがとは思いつつも、あえてそれを言わず
「出来るか?」
とだけ藤田に尋ねた。
そんな川路の様に少し驚いたようだった藤田だったが、少々口の辱を吊り上げて
皮肉な笑みをうかべると
「いいでしょう。」
と川路の話を快諾した。
そしてしばらく彼らは雑談をした後、それぞれの勤めへと戻っていった。
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秋ももうすぐさしかかろうとする季節
藤田は先月言い渡された仕事をまっとうすべく、香川敬三という男の元で警護をしていた。
要人警護とは深く相手方の任務をしる必要も無く、
ただ危険から身を守るというという点にのみ重点をおけばよい、
そう藤田は考えていたから、香川という男が宮廷関連の職につき
なおかつあまりいい噂をもっていないという二点以外は興味を持とうとしなかった。
しかしそんな様子がかえって香川に気に入られたらしい。
ちょくちょくと料亭へと誘われるようになった。
困った・・・
正直藤田はそう思った。
自分はどうも特定の人間と親しくすることに慣れていない。
勤めがらとしても少し距離をおいて接したほうが任務遂行にはよいし
なにより料亭の席で酒を勧められるのは嫌だった。
・・・酒を飲むと無性に人が斬りたくなるのですよ
一度そう笑いながらそれとなく伝えたことはあるが、むしろますます飲みなさいと
香川に勧められてしまい窮してしまったことがある。
酒は血を滾らせる。
特に目の前の腐った豚は即刻切り捨てたくなる。
維新当時活躍したからといって維新後は任勤めを忘れて呆ける輩は・・・
そう考えつつ料亭の席で藤田は香川と飲み交わしていた。
香川は飲めば飲むほど饒舌になり、維新前のことをぺらぺらとしゃべる。
そして今日はこともあろうに新撰組の話になった。
その瞬間、藤田五郎がかすかに顔を強張らせたことに誰も気付きはしなかったが―
今は川路しか知らない話だが、この藤田五郎はその昔新撰組の組長だった。
名を斎藤一といった。
彼は隊内ではも一、二を争う剣客で、向かい傷一つ負わなかったという。
かの有名なぼくしん戦争では会津の地まで副長土方に着いていき、猛戦した。
きしくも幸か不幸か彼は生き残り、山路に腕を買われて明治政府へと仕えることになったのだが・・・
敵方である明治政府に仕える屈辱、身分を偽っての入庁、
生き恥とも勝る奈落の底から彼は這い上がり、今こうして密偵NO1として生きているのだ。
酸いも甘いもたったの三十年で人生を悟ったこの男を川路はまた友として認めていた
「俺はあの有名な陸援隊の副長を勤めていてな、そらぁ勇敢に戦ったんだよ。」
「あんたも知っているだろう?無念のうちになくらなられた坂本先生と一緒に
横死した中岡慎太郎。あれは俺の前に務めていた陸援隊の隊長だったんだよ。」
「だから俺は無念を晴らすために新撰組の連中をこの手で討ち取ってやろうと
心に決めてわざわざ板橋の討伐隊に志願したのさ。」
目の前の男はしゃべるしゃべる。
そしていらんことまでしゃべる。
しかし藤田は細目の笑みを浮かべたまま相槌をうつ。
「それはご苦労なことです。」
勿論内心はこれっぽっちもそんな事など考えてはいない。
しかし目の前の男はますます熱い口調で顛末を語り始めた。
「あの近藤という輩ほど愚かな男はいないね。」
そう彼は切り出した。
「流山で村民を兵として訓練したもんはいいが、そんな情報はこちらに筒抜けさ。
大久保大和なんて偽名も勝沼での戦でばれているというのに。」
さも馬鹿にしたような口ぶり。
軽蔑もこめたため息をついた後、香川はこういいはなった。
「おまけに我等は江戸川東の治安維持のために駐留していると抜かしやがった。
馬鹿以外に表現のしかたがあるとおもうか?」
そして下劣な大笑い。
この瞬間ほど藤田が耐えた時間は無かったのではないか?
・・・だが藤田も一瞬遅れて笑いだす。
あまりの目の前の男の愚かしさに我ならが可笑しかったからだ。
「確かに馬鹿だ。」
そういって藤田は笑った。
無論自分を笑っているとは露ほどにも判らない香川だから
「そうだろう?」
といって酒をかっくらう。
その様を見て藤田も酒を煽る。
目の前にいる男はあんたが馬鹿にしている新撰組の男だ。
それも人斬りが大好きときている剣客。
そしてそんな恨み募る男に身辺警護をさせているこの香川敬三という男ほど馬鹿な奴はいないだろうよ。
ほくそえむ藤田、いやここでは斎藤と言ったほうが正しいか。
維新前ならとうに斬り捨ててやっているが、今は政府の役人。
まだ多少なりとも香川という男は命を狙われても可笑しくはないくらいに勤めているのだろう、
ならば生かしておいてやる、
そう彼は思っているのだろう。
―夜は更けていく。
恨み募るもの同士、今はきしくも道をともにする
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それからまた数日後
藤田は川路の前にたっていた。
「ご苦労だった。」
そういって報告書を藤田から受け取ると、軽く目を通し藤田に声をかけた。
「まぁ香川は狙われるといってもたいした輩には狙われていないのだろうな。」
皮肉とも付かぬような口ぶりで報告書をはじくと再び向き直りこういった。
「よく耐えてくれたな。」と。
川路は知っていた。
香川という男が忌み嫌われる性格であり、新撰組隊長近藤勇を捕らえた人物であることを。
だが御付として斎藤一もとい、藤田五郎を選んだ。
香川は好ましくない人物ではあるが、一級警護の必要ありと踏んだからだ。
さすればそれなりの腕利きをつけなければならない。
それが藤田五郎だった。
藤田自身も近藤の最後くらいは知っているのだろう。
香川のことをそういう人物だと知りながら勤めを承諾したに違いない・・・
藤田はそんな川路の気使いを正直にうれしいと思いつつも
いつもの無表情な顔で
「いやぁ可笑しかったのでいいです。」
といった。
「そうか、可笑しかったか。」
川路も彼の本意を理解したらしくふときつい表情を和らげ笑った。
しかし自分もそう人を笑ってもいられまいとも思う。
この激変の時代、敵も味方も目指す先が同じならば手を組む、利用する。
いや、敢えてこの男は利用されているといったほうがいいか。
いずれにせよ今は今、
無事任務を遂げたことにただただうれしく思う川路だった。