キエルの休日②休日の始まり

一台の車が白の宮殿から走り去っていく。
まるで監視の目をすり抜けるように走る小さな、それでいて気品を感じさせるその車は
たった今月の女王とその親衛隊隊長を乗せて、ゲンガナムの街へと進んでいくのだった。

事前の宮殿内の情報統制により、ハリーの目配せによって隊員達に、
辛うじて女王への敬礼を取らせずに、素知らぬ客が帰る振りをさせて宮殿を抜け出すことに成功する。
生憎フィルは軍の演習視察へ出ているし、ミランはハリーがついているならばと
見てみない振りをしてくれている。
こう都合よく運ぶことにいささか気が抜けたハリーであったが、
それでも口車にまんまと乗せられたとはいえ、喚起せねばならない立場である自分が
それを助長している分責任が重いことは重々身にしみて分っている。
先の戦争がある分いつだれぞに狙われるか判らないという現状がある以上、
「ディアナ」様を守る為に「ディアナ」様には内緒で警護の包囲を敷いてあるし、それが当たり前だと思う。

「ディアナ様、余り人の多い所は目に付きますゆえ、今回は私が真に勝手ながら
行く先を案内させていただきます。只でさえそのような御格好ですから・・・。」

「わかっております。早めに服を購入して衣替えするつもりです。
その為に髪も民のように結ったのですから。」

女王ではない、ムーンレイスの振りをして街へ行く事に初めて不安を抱くキエル。
なまじ月の民の”流行の文化”に疎い分だけ、地球人としての感覚がキエルをそうさせる。

「・・・しかしこのような格好はやはり目立つものなのでしょうか?」

極めて平生を装ってムーンレイスであるハリーに問う。
だが、それに対する答えは示されず予想とは違った答えが返されたのだった。

「ディアナ様はご自分の容姿については無自覚でのようで。
このような事を申し上げるのは大変わたくし自身の品位を疑われてしまうでしょうが・・・
恐れ多くもディアナ様はご自身の溢れ出る美しさにお気ずきになられていないようです。」

「ギンガナムのような下賎な輩を例に引き出すのはディアナ様を汚すようで
例えてはいけないのでしょうが、あの輩はディアナ様の美しさ神々しさを餌に
士気を上げていたことはその典型的な例でございましょう。」

ややかしこまったままハリーは当たり前のようにキエルを見てそう言い放つ。
そんな”当たり前”という態度を取られて思わず頬を染めるキエル。
勿論”ディアナ”のことを評してそう話したのだから”キエル”が照れる必要もないのだが
ここでいう”ディアナ”はすなわち”「ディアナ」である時のキエル”を指しているのだ。
ハリーの忠誠心を考えれば純粋に”ディアナ”を評したのだろうが、
そんなことを考えてしまうとキエルはどうしようもなくなってしまう。

「ハリーはお世辞が上手いのですね。
もしよろしい御婦人がいらしたらそのように囁きなさいな。
きっと喜ばれることでしょう。」

”照れ笑い”を無理に”部下を見守る女王の笑み”に変えてハリーへ向ける。
それを知ってかしらずか、ハリーはただ
「そのようなことを心から申せるような方は、ディアナ様以外には存在いたしませんから。」
と、ありきたりな返事を返すのであった。

車はやがてビルの谷間へ入っていく。
いつぞや暴動の起こった市場を通り過ぎると、程なくハリーは閉店しているひとつのデパートメントの前へ
車を止めた。

「ディアナ様、到着いたしました。急遽閉店を装い貸切にてショッピングをお楽しみになられるよう
真に勝手ながら手配させていただきました。」

外からハリーは扉を開き、キエルにデパートメントへ入るよう促す。
しかしキエルは一つだけ気にしていたことを戸惑いつつようやく告げることにしたのだった。

「ディアナと私を呼ぶのはお止めなさい。周りに怪しまれるでしょう。
今日一日だけは、私をキエルとお呼びなさい。」と。

勿論、自分の危険を反らす為であるけれども、
せめてこんな時にしか、キエルでいられることはないであろうから・・・

「わたくしのわがままに付き合うのは嫌ですか?ハリー。」

ディアナでもないキエルでもない、いやむしろディアナでもありキエルでもあるような表情がそこにはあった。
哀願する一人の女の表情。
神格化されたディアナ様が俗物のような人間の表情をしている様は正直拝見したくない。
そしてなにより、キエルという親愛なる御婦女に悲しい思いをさせていることが心苦しい。
その新たに与えられた身分により、今まで以上にキエルという自分の割合を減らし、
ディアナというもう一つの心の割合を増やすことは、
女としては少なからず苦渋は含まれているに違いない。

「それは・・・ディアナ様の願いですか?」

一瞬迷いが生じる。
こんなにも自分の中で分別ができなくなるとは。
余りにも彼女はディアナで有り過ぎた。

「キエルとしての願い、と申せば叶えてはいただけないのですか?ハリー大尉。」

その鋭く突き刺さる強い意志をもった視線。
こうしてようやく今の彼女はキエルなのだと知る。

「・・・承知いたしました。」
ようやくそう告げてハリーは小さく会釈をした。
それはディアナとキエルの二人に赦しをこうせめてもの仕草のつもりだった。

キエルの心が、ディアナである時にも滲み出すということ、それが何を意味するのかは
ハリー自身が一番知っていることだった。
キエルはハリーに真の意味で支えて欲しいと願っている。
しかしハリーにそれをすることは不可能に近い。
なぜならばキエルは「ディアナ」であるから。
以前にも増して「ディアナ」であるから。

いまですら見分けが付かなくなっている己に、”ディアナでもある”キエルを受け入れればどうなるか
自分を見失いそうで怖かった。
ふとした会話にゆき過ぎない好意を含めることは出来ても、それ以上キエルに近づくことは
ハリーにとって大いに躊躇わせる原因だった。

キエルが微笑む。
「さぁ、ハリー殿参りましょう。」と。
しかしハリーはその問いかけに、うわべだけの作り笑顔でしか答えることは出来なかった。

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