モーニングコーヒー(大総統夫妻)

鳥の囀りと射し込む
―眩しい。

そこで目が覚めた。今日は演習の視察だというのに、目覚ましも掛けずにこんな所で寝てしまったらしい。使用人に寝るよう声を掛けられてもあと少しと本を読み耽っていたのは私だ。
しまったと体を起こす。慌てて壁の時計に目をやる。時刻は5:30。まだ二時間程家を出るには猶予があった。
「もう一眠りするか?」
歳のせいか目覚めが早くなってきたのは幸か不幸か。それでもまだ重い双瞼が睡眠欲に打ち負かされそうだ。
しばし葛藤していると、嗅覚が覚醒したのか匂いを察知した。
挽きたてのコーヒーの香りだ。淹れたばかりの温かい湯気の気配がする。昨日は飲み掛けの紅茶を置きっ放しにしてしまったが、誰かかたしてくれたのだろうか。
確認しようと視線を机に向ける。すると、何かがパサリと落ちた。おもむろに床を見やると見慣れたショールが体に引っ掛かったまま床に広がっていた。拾いあげてこれが妻の物だと確認する。
なんでこんな所に?…過ぎった疑問は新たに視界に入った物で即座に得心が行った。
机には白いカップと出来たてのコーヒーが一つ。
本はしおりを挟んで閉じられ、昨晩の紅茶は片付けられている。

―む…

軽く唸って自分自身に溜め息が出た。昨日はずっと仕事の事ばかり考えていて、ろくに食事も取らなかった。態度に出すまいとしていたが、上の空だったのはとっくにお見通しだったらしい。珍しく黙っているなと思ったが、真相は逆だ。気を使って何も言わないでくれたのだ。いつも後々に気が付く。今もそうだ。
…本当にしょうがない。

手を伸ばしてコーヒーカップを取る。軽く息を吹き掛けて口元へ寄せる。
そうして一口、目覚めのモーニングコーヒーを。
「美味しい。」

まだあれは寝ているだろう。二度も起こしてしまったのだから、まだしばらくはベッドで身を横たえているはずだ。だけれども、コーヒーを飲み終わったらショールを返しに行こうと思う。家を発つ頃もう君はすっかり夢の中だろうから、まどろみ始めた今のうちに、ありがとうと伝えよう。

横を見ると寝ているはずの相手が居ない。まだ寝ていないのか、もしくは・・・。
音を立てないようにベッドからおりてショールを羽織る。扉を開けて思い当たる部屋へ歩いて行くことにした。
誰も居ない廊下は静寂が支配する。窓から月明りと街を守る灯火が見えて、少しばかりホッとさせられる。まだ夜の空気は少し肌寒い。風邪を引く程ではないが、明日は早いのに遅くまで・・・とは思う。こんなことは珍しい。いつもどんなに夜更かしをしても寝室に身を横たえるのに、今夜はそうではない。誰か声を掛けてくれればいいのに、きっと大丈夫だと断って居座ったのは本人だろう。
ノブに手を掛けて回す。キィと鳴った事にドキリとする。当の本人は深く眠りに落ちて居るのか動きだす気配はない。ソファへ歩み寄る。案の定その人はそこに居て、目をつぶったまま寝息を立てていた。目の前の机には飲み掛けの紅茶と新聞が置きっぱなしで、彼が考え事のさなかそのまま疲れて眠りに落ちたのだなと一目で分かった。
苦笑する。夢中になるとこう。起こしてもよかったが、黙って羽織ってきたショールを掛けた。浅く閉じた口元と皺の寄った穏やかな目尻を覚醒させるのは気が引けたし、もう夜は深い。なによりこういう日は黙って見て居たかった。
・・・本当にしょうがない人だと思う。仕事の事ばかりで、自分自身の事などお構いなし。いつも、いままでも、今ですらそう。この人は何を見ているのか何を考えているのか、たまに不安にすらなる。
見慣れた顔なのに、なぜか少し苦しい。この人にはこんな顔を見られたくない。年月を重ねる事に色んな出来事に彩られ、深みを増し、その感情を在り来たりの言葉で表すのが困難になる。心の奥で滲み、染め変えられて行く。
添い遂げると誓った日から約束を破ることはない。我ながら律義さにうんざりしている。でも本当にしょうがないのは、この人を選んだ自分自身。
―離れられないのは、あなたのせいなんですよ?

ゆっくりとしゃがみ込んで、耳元へ顔を寄せる。
「おやすみなさい。あなた。」
目を伏せ囁く。流れ掛かった髪をすくい上げ、平和そうに寝ている夫の額を小突く。立ち上がり、また扉を閉める前に振り返って夢の世界に落ちている姿を確認し、その場を離れた。
明日は朝一でコーヒーを用意しようと思った。使用人が、眠りこけた姿を見て慌てる前に。
飲み掛けの紅茶は片付けて、熱々のモーニングコーヒーをあの人へ。

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