赤く焼けた地平線は死地のように美しかった。
あの果てへと駆け馳せた人を想い、彼女はその青い瞳が赤射光に染め上げられることをまるで拒もうとはしなかった。それ所か眼を見開いたまま、世界の終わりを告げるかのような日没に一身を差し出す。だがその無防備な姿とは裏腹に彼女は太陽すらより赤く塗りつぶしてしまいそうな威圧感すら放っている。形容するなれば、華奢であるはずの彼女は斜陽の影になるどころかその日射すら自己の色へと変換し自らを彩る要素へと還元していまう力をこの場において確かに持ちえていたのだ。
ええ、泣き言は言わない。もはやそのタイミングも取り零してしまった―ただその呪縛にもにた喪失感だけが彼女をこうも奮い立たせ、そしてまた、悲しみという感傷を刈り取ってしまっていたのだから。
roter jewely
昔、一人の馬鹿な男がいた。
そいつは人類全てを幸せにしようと、不幸を人間世界から排除しようと正義の味方を目指したのだ。テレビの勧善物語にも負けじと殺されかかった人がいればそれを助けるようとする。更には「殺されかかった人」を「殺そうとした」不幸な人間すらも助けたいと考えていたのだ。しかし残念ながら当然両者とも救うなんていう都合のいいドラマ展開は現実に無い。大を助くば小を捨てよ、ではないが大も小も両方救うことなんて取捨選択を迫られる人生においては無理なわけで、結果として彼は大の為に小を切り捨て、小を切り捨てた罪の意識ばかりを抱えて私の前から去っていった。その男は自分の幸せというものに興味が無く常に他者の幸せを見ることでしか喜びを見出せない自己破綻者で、もっとわかりやすく言えば自分のろくでもない生き先すら当に知っているくせにまるで回避しようとしない、最低最悪の自殺願望者だったというわけだ。
ただそれだけの話ならば、切り捨てることなんて簡単なのだけれども。
基本的に私は借りをきっちり返す人種だと自負している。約束を反故にするなんて断じてしないと言い切れる。なのに私は人生で唯一、この世界で一番愚かなその男との約束を守ることが出来なかった。一番大切な、一番導いてはいけない結末をもって、約束を反故にしてしまったのだ。
今でも容易に思い出せる。記憶の中の彼はいつも怪我を負っていた。それなのに自分の痛みには無頓着で自分ではない誰かが傷ついてはいないかと常日頃無我夢中で走りまわっていた。当の私自身も彼に命を救われ、彼に助けられた一人。一途に自分以外の者を思う不器用な生き方は美しく、泥沼の中ですら身を汚しながらも届かない光を目指して歩いて行ったその人を、きっと出会った人は皆愛さずにはいられないだろう。ただ心のまま湧き出す素朴な笑顔とすらりと影絵の伸びる長身は風景に溶け込み、やがてその残像に僅かばかりの木漏れ陽を零して行くのだから。そうやっていつしか彼は英雄と呼ばれる古に存在した概念を現代で体現してみせたのだ。勿論本人はそう呼ばれることを嫌うだろうが、皮肉にも英雄と呼ばれる型に漏れず『正義の味方』だった訳だから私個人が皮肉を込めて彼を英雄と呼んでやるのは別に構わないと思うのだ。…えぇ、世界から弾かれ、私という女を振って、たった一人ぼっちの結界で剣の墓守りをし続けるバカヤロウな英雄と。
かつて私とは10センチほどしか背丈が違わずただ少しばかり頑丈な体と役にも立たない魔術を使役していた彼は、ある争いの折、自らの呪われた運命を赤き弓兵から告げられることになる。呪われた運命は彼のあり方そのものを変えなければ回避出来ぬ代物だというのに、しかして彼はあり方を変えぬと赤い弓兵に言い放ったのだ。それは自らの残酷な死と死して尚地獄へと囚われる道だというのに、ただ破滅に向かう転落人生を彼はまるっきりすんなりと受け入れてしまったのだ。かつて赤い弓兵がそうであったように、叶わぬ理想に憧れ憎しみを抱く二律背反の煉獄への第一歩を正に踏み出そうと、先の無い未来を見据えて。
だからこそ彼のあり方を変えるという赤き弓兵の、未来からきた彼自身と交わした約束を守ろうと私は決意した。自分という物が無い彼に自分を慈しむ愛を持たせようと、最後に微笑んでくれた遠い彼と約束を交わした。だっていうのに。
―あぁ。
彼自身が危惧したように、そして何よりそんな「彼のあり方を愛してしまった私」に全ての結果は既に出ていたのだと10年経って知る羽目になるのだ。考えてみれば当たり前だ。「彼のあり方」自体、「自分が無い人間だからこそ実現されるあり方」だったのだ。そしてそのあり方を愛おしいと思ってしまった私には当然ながら変えることなど元より不可能だったのだ。何故そんな単純な推測に辿りつかなかったのだろう。・・・本当に私は肝心な部分で大ポカをする。人生において最大級の大ポカだ。お陰であんな唐変木との約束をよりにもよって果たせなくなってしたのだ。まったく尺にさわるったらありゃしない。まさしく貸し逃げされたトオサカさんだ。
こうして結局私は、あいつに貸しを作ったまま返す機会を永久に失ってしまった。
魔術師を目指した時から何かを奪い、また何かを失うのは必然だと覚悟はしていた。要はそれが私の場合あいつだったというくだらない話だ。さっさと割り切り先を目指す、それが私の生き方。一時に走る痛みなど一々気にしていては生命の危機に関わるし、彼はきっとそういう体(てい)である私を望むだろう。だからたった今こうやってかつての痛みを思い返してしまうのは気の迷いだと思う。戻らぬ過去をなぞり返した所でなんの進展も望めないのだから。
だというのに私は、立ち尽くした丘の上で一瞬だけ顔を伏せ、不意に目に入った赤いペンダントを掌で強く握り締めてしまっていた。あれからまた力を蓄え続け、以前以上の力を込めた赤い宝石を。
記憶を更に穿り返す。
一報を聞いて私は何を思ったのだろう。彼を誇らしく思っていたから私は泣く必要などないと妹を慰めた。故郷の土地を二度と踏むことなく遠い異国で彼はある種の戦犯として見せしめに殺されたというのに、まず私は妹の心配をした。アイツはアイツの事で周りが傷付く事こそが一番辛いはずなのだからと。そもそものことの成りゆきなど想像に難くない。正義の味方を目指した彼がそんな対極の象徴になるわけはないと私自身が一番よく知っている。事の真相はどうせ、皆の為に罪を被って死んだという辺りだろう。
ではその無残な死から彼を遠ざけるすべはなかったのか?問われれば答えよう、残念ながらなかったと。
だいたい周りが止めるのも聞かずにあいつは飛び出して行ってしまったのだ。私も付いて行こうとしたが、それを見抜けない馬鹿ではなくなっていたのが、遠坂凛における人生最大のうっかりと断言できる。なにせこの私すら置いて出て行く始末なのだから。そうして結局彼の行方は途絶えてしまった。協会の噂で封印指定を受けながらも正義の味方をし続けているという情報のみが唯一の音沙汰代わりになって。
否。真実を言うならば、捜そうとする機会は幾度とあったのだ。
ただそれを私はやれなかっただけ。結果彼はどこかの宗教の象徴みたいに誰かの罪を一身に背負い込み、死体を晒され、ほんのわずかな哀れみからかろうじて形式的な墓を作ってもらえたにすぎない。それも封印指定の関係上遺体が本当にそこに眠っているかどうかも疑わしい状態で。こうしてただ自身の破滅を迷わず突き進んだという記録だけが一部の人間の中に残った。
だからこそ守護者へと、赤い弓兵へと成得たのだろうけれど。最期の彼の死に姿はかろうじて執行者連中の噂として、身体から幾多も剣を生やすように串刺しにされただの大衆の面前で首を吊られただのといったろくでもない類の物ばかりが伝えられた。共通するのは追跡者連中を殺すことなく排除し人類の救済だのとやらを続けていたんだとかいった代物だけ。愛想良すぎる人懐っこい笑顔で彼が救いえた弱き者を見つめる風景が確かにあったといえる余談。
あの時、すぐにでもすっ飛んで無残な死を目に焼き付け翻した約束を楔として胸に刺し泣き付くしてしまえばよかったものを、留められず、この足でマザコンの母親みたいに意地でも付き添ってやることもしなかった私にその資格はないとかつて思考した。
思い返せば彼との別れは確かに存在し、間際に見せた彼の輪郭は誰よりも私をきっと想っていてくれた。だから彼は私を置いて行き、残された私は残るべきか(「彼の思いやり」)を取るべきか残らざるを取るべき(「自分のエゴじみた信念」)か迷い、答えをうやむやにしたまま時計塔での多忙な生活に身を埋ていってしまった。周囲の目やプライドなんてのもやろうと思えば簡単に捨ててしまえたってのに。
―そう、なにもかも間違い。あんな顔をさせて人知れず出て行かせた私が間違い、あいつも男として間違い。大体三流映画でもなし、女を裸でベットに残したまま消えるな。何が『大好き』よ、大好きなら朝まで女と居てあげなさい。まったく、珍しく飢えた性欲の固まりみたいに襲ってきて散々暴れたと思えば。あんたは身体デカイんだから手加減しなさい。30センチも小さい華奢な女を組み敷いて、あのケダモノめ。人畜無害な草食動物のくせして黒くなればナチュラルに悪魔の象徴黒羊や猿の気性を権現させるとは狼化よりも質が悪い。いくら私がその、感じやすいからって調子乗るんじゃないわよ!揚句にこうなるのは遠坂が悪いだとか平然といいのけやがって、アイツ。魔力もねこそぎ食べて行ったし。あと、最後の最後で「りん」って初めて下の名前で呼んでくれちゃってさ、最低。
暗がりで対峙する裸の男、その肌は錆行く剣のように色素が濃く沈澱し、かの大師父のような白い髪は若者の滑らかさだけを残したまま赤茶色を喪失していた。鍛えられた体は10代の頃とは違い厚い筋肉が付加されている。名残か、相変わらずこういう場面において途中から一人で暴走するのだけれど、私もまんざらではないというか、思い出したくも無い程脳天とろけた信じられない醜態を曝す模様なのでこれについては追及しないことにする。そのくせ声も性格も信念も全くぶれずに、あの赤い背中に一寸違いなくなった、なってしまった。あの愚かしくも愛おしい『エミヤシロウ』に。無意識のうちに凛と囁かれて、何を感じたか。やっと下の名前で呼ばれたという事実に世間一般の乙女心を所持する人間として素直に嬉しくなりつつも、同時にコイツは誰だ?という胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。よくよく見ればこれはいつか見たナイトメア、強制的に接続して誰かの記憶を私の脳髄にごまんと流し込んでくれた皮肉屋の過去の再現だ。まだるっこい正義を突っ張りくすみ荒み汚れ傷み、確かに在った指先の爪ほどの憩いすらその身で断ち切った弓兵の過ち。行使すべき意義理想を世界に奪われ剣という道具になり果てた虚しい末路を垣間見苛立ちが自身を支配したというのに、相反する両立不可避な『永遠に叶わない願い』へと挑むあの鈍禺な一途さを何より気に入っていたから、既視感にただ震えが走った。恐れ敬い歓喜する畏怖の念。
実現出来ないから止めろと言った所でエミヤシロウは止まらないし、もとより彼にはその願いしかない。全てが大事だから一つだけを守ればいいなんて選択は存在しない。常識的に考えれば自分という代物一つを守ることすら困難だってのに、馬鹿だからそれがあいつはわからない。…わからないから私は、あいつが納得してなくったって無理に殴ってでも塞いで止めて来た。その分だけ回り道をしてしまったのかもしれないけれど、夢には自己満足ながらそれなりに近寄れたと思う。
ただそこに見落としがあったならば。夢を叶えると同時に理想という幻想が正に進行系で崩壊していく真っ只中だった彼の状況を私は彼以上に察知出来なかった点か。聞こえぬ警報が鳴り響く。ろうあ者が締まりかけた遮断機でようやく遅まきな危険を察知するのと同じ、危なくたって走り抜けるか、まだまにあうから待てばいいと歩みを止めるか、そうやって惑う間にも置いていかれるのだと気付きもせずに。
人は二つを選べ無い。何故ならそうすれば必ず一つを取り落とすから。アイツはそれを知っていた。だから私とアラヤを秤にかけてアラヤを選んだ。だってのにそのアラヤ自体がそもそも二つ所か無限を内包していてその全てを選ぶなんてのは魔法ですら未だ叶えられていない難題そのものだったとは。
―なんて愚か、なんて傲慢。
でも、挑まんとする彼を愛した故に夢を肯定した私は、彼以上の大馬鹿者だ。理想ではなく私に溺死させるなんて冗談を、いっそ本気で目指せばよかった。
額を寄せて目を伏せる。お互いの姿形なんて瞼の裏にありありと描き出せるのに触れそうな唇はいつまでも重ならない。トオサカリンはエミヤシロウが愛おしくエミヤシロウはトオサカリンが大好きで、故に二人は片想いのまま終焉を迎える。記憶は薄れいつか痛みすら喪失するのだろう。その後に続くのは魔術師として道を追い求め子孫に繋ぐ終わらない流れ。世界に縛られ彼は果てに在り続け、私は根源に縛られ輪廻を繰り返す。そう、だからこそこの赤い宝石を持ち続けるのだ。これは別れなどではない。そもそも今更別れようなどないのだ。始まりも終わりも既に10年前に済ませている。衛宮士郎と出会い、エミヤシロウと別れたあの歪みの刻に。今は赤のペアルックなんてしてる程だ。アイツは律義に返すまで持っているだろうし、私もこれを手放すつもりはない。つまりこれを持ち続ける間はそれでこそ永遠のパートナーって代物が実現できちゃう訳だ。
いつぞやの奇妙な解逅を得て、私はあんたの傍らに居続けると誓った。例え離れ離れになろうとも、約束は在り続ける。だからもう泣くのは止めて顔を上げよう。遠坂なら鮮やかにやってみせる、そう言ってくれた彼の理想で在り続ける為に。終わってしまった後悔はもうこれっきりにして、魔術師としての道を、歩いてくことにする。
こうして回想から湧いた郷愁を赤い地平線の向こうへキスと一緒に贈り返し、彼女はようやくネックレスを仕舞った。まだ仕事は半分もかたずいていない。夕日に背を向け踵を返す。さてさてさっさと終わらせますか!とぼやいた表情は既にいつもの悪戯じみたあくまの笑顔。そんな彼女を見送るかのように雲が晴れたその洛陽は、いつか答えを得た彼が笑ってくれた朝靄とどこか似ていた。