道はたがえた。
確かにそれが彼の願いではあったのだが。
相手の背中を見つめ、自分の掌を握る。別物だと言い聞かせるように強く指先に力を入れ、成長と共に黒ずんだその手肌を眺めると、ただ馬鹿だなと一人呟いた。
困難を行くであろう彼。恐らく血を流し命すら奪われるやもしれない。何かを成すには対価という相応の代償が必要なのだから。ただし彼が迷いなくそれの幸せの為に走りきった暁には、今まで蔑ろにしてきた自身の幸福をもてに入れるだろう。‘自身’の事だ、予想はついた。見つけられなかった可能性を羨むことはせず、新たな希望へ駆けだす少年に逞しいとさえ思えた程。
だからこれは些細な残滓だと彼は思う。どうせこの召喚限りの感情、案外融通の効かぬ自分に気が付けただけでも良しとしようと踵を返し、還る流れへと身を委ねた。
「ねぇ、やっぱり暫くは巡回やめようかしら」
髪を靡かせ何時も胸を張る少女。そうやって颯爽と歩く主の後を男は追う。いつもならば待った無しで軽快な口火を切る彼女は、珍しくやや陰欝を潜ませた言葉で取り留めのない会話を始めた。普段は皮を被ったり茶化したり、或いは含みを持たせて遊び半分のキャッチボールを楽しむのだが、こういった手合での会話パターンは鋭利な核心の突きあいになる。
「桜か」
案の定彼は模範通りの答えを返し、彼女の思考チャートを開始させる。
「ええ、あれは危険よ。いつまで持つかなんていってられない。」
危惧を表し思い詰めた硬さに、わざとらしく腕組みをして場違いなコメントを寄越す男が一人。
「ならば直ぐにでも始末しようか。しとやかとは言い難い気性の持ち主である君の手が血に染まるというのはなかなか合っていると思うが、掃除ならば私の方が得意だ」
そんな馴染みの軽口に、彼女は程よく力が抜けていく。
「何よそれ、私が凶暴だって言いたいわけ?」
「言葉の綾だ。君がそう感じたならばそれまでだが。」
「ふん、まぁいいわ。こっちも捻くれた奴を相手にしなきゃならないんだからおあいこよ。ただ一つ言っておくけど、『あんただって桜を殺せるの?』」
その言葉に不本意だといわんばかりに彼はむっとしてみせる。子供が拗ねるような説得力の無い怒り顔は彼女のからかい癖をくすぐったりもするが、今回ばかりは当人にそれに興じる気分がなかったようで、続けざまに彼女は証明となる根拠を差し出してくるのだ。
「宝具を使うなとはいったけれど貴方ならライダーに勝てたわ。」
言い切る彼女に反論を挟む余地はない。」
「ライダーは確かに素早いし一撃一撃重い。だけれどランサーに比べればたいした速さでもないし、武器の扱い方を取っても貴方に分がある。背後の人間に気を遣わなければ串刺しに出来たでしょうに。桜を巻き込みたくない意図が見え見えよ。」
ぐうの音も出せない。
一言で表現すると彼女は鋭い。
そして男は嘘を付けない。
よって言い訳をしたところで男はぶざまに矛盾を追及されるだけだろう。故に彼は余計な反論を控えるのだが。
「あんたね、セイバーに隙を見せたり桜を気遣ったりなんの関係者よ?生前セイバーだけじゃなくて桜に似た女ともなにかあったとか…もしかしなくてもあんたって女ったらしの節操無し?」
飛び出た発言は嫌みの効いたストレート。あながち嘘でもないから彼は弁が立たない。
「きみ、誤解を招くような発言は止してくれ。大体私はそこまで器用な男ではない。万が一セイバーや桜などを相手にしたとて上手く立ち回れる自信等無い。」
「あら、あんたにしては弱気な発言ね。てっきりああいうタイプの女と付き合ってたのかと思ったけど。」
「さぁ、意外に君のようなじゃじゃうまを相手に苦労していたかもしれんぞ?」
「ふん、そこまで思い出せてるなら正体ばらしてくれてもいいんじゃないかしら?ま、大方貴方の性格は掴めたから今更正体明かされても有益な情報なんて期待出来無いだろうし。」
そう振り切ると元の口調で「ところで話戻すけど」と側の相棒にマスターとしてまた言葉を返した。
「わかっている。あの男が納得するまでは放置しろというのだろう。君の意向には従うが明日にでも殻を破り悪魔が飛び出してきてもしらんぞ。」
「馬鹿ね、そうなったら姉である私が責任持ってあんたに悪魔退治させるわ。なんならブーストかけてあげるけど。」
「・・・全く人使いが荒いな君は」
「あら、これでも必要最低限の行使に留めてるつもりだけど。まぁでも真面目な話、桜なら暫くもつでしょうね。あの子想像以上に強いわ。」
「君の妹ならば当然だろう。それに恐らくあの男を思う気持ちがそうさせるのだろうよ。」
「逆にいえば士郎が桜の気持ちを損ねれば凄いのが飛び出してくるとも言える…?」
ムム、と彼女は腕を組み考えこむ。巡回の話をしていたはずなのだが、論旨に若干ぶれが生じている。
「とにかく不安定要素を放置したままの巡回も気が乗らないというのだろう。例の影に間桐の一件、小僧と袂をわかった以上両方の面倒をみなければならないわけだ。」
脇に逸れたものを本道へ戻す役割は彼、彼にしてみればこのままくだらない話に興じてしまってもそれはそれで構わなかったのだが、後々主人を諌めるという役割を放棄したことに関して咎められるだろうからと流れを修正してやるのだが。
「爺の方はすぐにでもとっちめてやりたいけど見つけるのは困難、そうやって地団駄踏んでる間にも影は日々拡大してる。止まらないのはまだまだ足りないってことよね。セイバーやランサーを食べても満たされないって随分欲張りよ。」
「あれは害なすものでしかない。早いうちに操っている者を見つけださねばこの町ごと飲まれるかもしれんぞ。」
「ええ、下手したら他の町もね。それにマキリの爺さんがあれを容認してるというのも変よ。確かに敵であるサーヴァントが減ってくれるのはありがたいけれど自分が食われたらって可能性を…」
そこまで言いかけて彼女は即座に大体のカラクリを悟ったのか。頭が回る故に一連の嫌な図式が組み上がり、険しい表情で後に控えた彼へ視線を送ってみせた。それを男は続けろという指示だと受け取り、促されるまま彼女の至ったであろう結論をそらんじてやる。
「恐らくだが影は彼が関わっているいるのだろう。だいぶ不安定だがな。だが律し切れていないとならば影そのものに意思があるのか、なんらかの理由で彼に従っているのだろうよ。」
それに御名答と心にも無い賛辞を贈り、
「まったくあれだけの力がある癖に妖怪なんかの言うこと聞いて大分気が小さいのね、あれ」
と、彼女はあっさり一蹴してみせた。
「そうとも限らんぞ。あの喰いっぷりは君のように遠慮がない。違うのは節操も無い点だな。」
「あら、あんたみたいに遠慮なんて出し惜しみしてたって後々とっておけるでもなし。ま、節操もないのは女として致命的だけれど。」
そこまで話し終えると、彼女は溜息をついて言葉を区切った。魔術師然としているが、彼女はやはり甘いなと従者は思う。そしてその彼女の意志を尊重する彼自身もこの時点において甘いのだろうと自身を省みる。
間桐臓硯はアサシンを引き連れ、孫の桜を傀儡としている。その桜自身は今の所強固な意志で傀儡である事にあらがってはいるものの、もはや手遅れの状態にまで改造されていてスイッチひとつで爆発してみせるだろう。打破するには臓硯を消し桜にかけられた呪縛を打ち砕くか、桜が正気の内に聖杯戦争で勝利させるかのいずれか。前者は間桐臓硯本人が遠坂というマスターから逃げている上に、桜という切り札を突き付けてくる可能性がある。後者は桜が持たないだし、何より遠坂凛という人間がどんな事情があろうと負けてやるなんて駆け引きを行う訳が無い。
つまり手詰まりだった。それでもやらないよりはマシと桜を臓硯から切り離し、心許ない安全装置として衛宮士郎を置き、リミットまで結局は桜を救いたい遠坂凛。一時の小候を保つたった今の隙にも桜の命を絶てば臓硯の目的も壊すことが出来ように、踏み止まったマスター。
―否、その気になればあっさりと妹とその匿いを殺せように、ただどこぞの神父のように猶予を与えただけ。それが致命的になろうと、なればなるほど彼女は魔術師として冷徹に処理してみせるだろう。だからこそ、そこまでの処断は避けたいと彼は思うのだ。
「桜のライダーに間桐翁のアサシン、残るのはアインツベルンのバーサーカーか。」
改めて確認する。前者二つは除外するとして、残る一つがあちらに着かれたのではたまらない。もっともマキリ、アインツベルン、遠坂は儀式の協力者とは名ばかりで利権が絡めば平気で殺し合う関係だから現在の当主イリヤスフィールがマキリに着くとは到底考えられない。逆を言えば遠坂が呼びかけた所でイリヤスフィールを懐柔など出来ないだろう。
「でもね、」
彼女は言う。
「助言は出来る。マキリがこのままイリヤを放置するとは思えないし、私からの忠告となればそれなりには受け止めてくれるでしょう。」
少しずつでもいい。悪い可能性は潰さなければと語るマスターに従者は頷く。
「賢明だな。あれまで敵に回られたら流石に私も手におえん。それにイリヤスフィールもマスターとはいえまだ少女、無下に殺される姿は余り見たくない。」
「あら、イリヤスフィールに同情するわけ?情けをかけてむざむざバーサーカーにやられたら怒るわよ」
「やられてしまえば怒られようが無いわけだが」
「まったく、減らず口だけはたたけるのよね。それより大事な事忘れてたわ。」
うんうんとわざとらしく頷き立ち止まって、改めて一つの意志を確認すべく彼女は自分のサーバントを見つめた。そこには絶対の信頼と揺るぎ無い自信しかない。彼女のあらゆる要望に必ずや応えてみせるだろう相棒へ、当然聞くまでもない質問を敢えて与える。
「もしもバーサーカーとやりあう羽目になったら、さっさと倒してくれる?」
それに対して彼は、問われるまでも無い答えをもって応えるまで。
「当然だ。我がマスターの命ならば。」
ククッ、先に漏らしたのはどちらか?ニヤリと笑いお決まりの応酬をやってみせ、つくづくこの赤い『マスター』『サーヴァント』と組めた幸運を喜ばずにはいられないと心底思う。他の参加者がどうなのかはしらないが、行動理念及び優先意志を共有出来ているがこそ、こうも長年馬鹿をやって来た腐れ縁のような呼吸の合わせ方が出来るまたとない幸運。友人はいても魔術師たる不可侵の絶対領域に居る人間として、ともすると排他的な圧力を周りに与え、自ら排除せねばならない役柄から解放されたのは皮肉にもこの戦争だ。そういった意味合いでいうならば、衛宮士郎と出会った折に感じたビジョンも同じ様に強烈で胸に焼き付けられる物だったのだが。
ただ、やはり一つ気になる部分があった。先程のループであり、再び巻き戻したとして一蹴されるかもしない、刺の先。どちらが口火を切るのか、再び話題を振り返し口を開いたのは珍しく男の方だった。
「あれが安全装置になるとは思えないが。」
声にだしてみた所で、こだわりを捨てられないのはどちらだろうか、脳裏に誰かが囁く。
「あいつが甘いのは知ってる。でもね、だからこそおいそれとなれば桜を殺せる奴よ。そうでなくても人間追い詰められれば重みに耐え切れられない。」
「凛はあれをかいかぶりすぎてはいないか?」
「そうかしら。そうだとしても貴方は逆に目測が狂いすぎてるわ。」
「さぁ、だが一度暴発すれば小僧なぞの手におえんのは確かだ。凛らしくない。」
その言葉に、彼女ははたと喉が詰まった。らしいというのはあくまで、他人が勝手にイメージから仮想人格を作り上げそれに実際の人物像を照らし合わせて仮想人格が優れていれば成り立つ語彙に過ぎない。お前らしくないなどと言われた所で、他人の過ぎった私見だと流せばいい。この男が相手でさえなければ。
「あんたって嫌な奴ね」
主の妹、主の協力者、その要因が彼女の冷徹な潔さを曇らせている事実。知っていながららしくないと突き付ける従者。彼が決して責めてなどいないのは承知している。だが、彼にしては言わずにはおれない何かがあったのだろう。それが何なのか、マスターとして知りたいとも思わないが。
ひとたび沈黙し切り出すか否か彼女は微かに迷ったが、それも瞬き一度の時間でしかなかった。この男が相手では白を切り通すほうが自身の心に後味の悪さを残しそうだ、と判りきった結論を受け入れたのだ。
「そうね、確かに私は羨ましいのかも知れない。」
そうやや他人行儀ながらもついに彼の言い分を認める。彼女にしては珍しかったが、思うに認めた後に残る気の緩みこそが、彼女に必要な一時の安穏だったのかもしれない。これは今に始まったことではなかった。彼は彼女と‘再会する以前’にもそういった事があったのだから。彼女は何事も溜め込むきらいがある。それを開けかさず、相対する人間はそれに気がついてもやれず甘えてしまう、その筆頭が紛れも無く当時の自分だったことは想像に難くない。幸か不幸か、巡り巡って漸くサーバントとしてならば彼女を慰めてやれる機会がこうして出来た。もどかしさとふがいなさ、生前の借りを死後別物に成り代わる事で叶えるという皮肉、されどそれに勝るのは与えられたチャンスへの喜びという矛盾と共に。
「ああやって振り切って想いを貫けるって。私あんなに怒った衛宮君初めて見た。」
「それにね、ああやって主張する桜も正直予想外だった」
彼女の吐露告白は続く。
「あの子も士郎に迷惑かけたくないのよ。士郎はその桜の気持ちも理解した上であがいてる。救いなんてないし、相手を想ってむざむざ自ら沼に嵌まってく愚かな心中二人組ってわけなんだけどさ。」
少し間を取る。何故赤の他人であり、相棒とはいえ期間限定の男にこんな弱音を吐くのか普段の遠坂凛には信じがたい事態ではあるが、こうやって黙って聞いてくれている以上、全てぶつけてしまえとも思うのだ。
「あんなに想われてるなんて、羨ましいわ桜。ああいう種類の人間に想われるってなかなかない。」
どこか、越えられぬ硝子の向こうの景色に憧れる少女のように、愁いを帯びた口元。それに従者は、ただ凛と名前を呼んでやることしか出来なかった。
「言っとくけど私、衛宮くんが好きってわけじゃないわよ?」
ちらりと振り返り、苦笑にも似たはにかみをみせる彼女。強がりなのかそうでないのか測るすべはないが、少女としての淡い感情がそこには揺らめいていた。
「あんたの事だから凛に小僧なぞ釣り合わんとかいうと思ったけど。」
「…別に、マスターにもプライバシーというものがある。私は使い魔とはいえ忠告はしても君の感情にまで立ち入らん。」
酷く生真面目な態度で彼は考え込むようにそうぽつんと答える。そうね、と頷く彼女は、結局の所彼が忠告すらせずに黙って聞いてくれた事実に全く変なところで気が利くなと思う。やっぱり大人ねと心底実感するも、少しばかりこの男の性格形成にいたる過去に彼女は触れてみたくなり、逆にこう問うてみるのだ。
「あら、じゃあアーチャーにも立ち入られたくない事があるんだ。」
皮肉屋にしては節度ある態度に軽いジャブを打ち込もうと試みる。運よく顔面にヒットするか、こっちの読み違いでパンチをボディに食らうか。
だからこそ、彼の答えは彼女の理解しえぬ代物であり、彼女は彼女の答えでしか彼に返せる物はなかった。
「さぁ、だが結局の所、私はどうあがいても私などにしかなれなかったのだと思えば。」
一瞬、彼にのみしか窺い知れぬ螺旋の果てが片鱗を覗かせた。
だが彼女はあっさりと彼の言葉を自らの真理で薙ぎ払う。
「変なこというのね。自分が自分以外になんてなれるわけないし、私は大体なるつもりもないわ。」
「…あぁ、君はそれでいい」
意に介さず真っ向正面な答えをさらりと返す、その、男がかつて憧れた姿は今尚輝かしい。我が道に一遍の後悔を持たない、人生の勝者たる生き様。比べて『自分』は。
それを選び後悔している癖に、それを選ばなければ選ばないで断罪しようとする身勝手。歪みに吐き気がする。もしも今、それを選んだ自分と対面したところで結局自分は断罪しようとして無残に失敗するのかもしれないなと、ありもしない仮定の話をふと夢想した。
「じゃ、お互いすっきりした所でイリヤの所にいきましょ。影は夜に活動してるみたいだけど、あんな所には来ないでしょうから。」
「了解した。確かアインツベルンの城は郊外はずれにある森の奥だったな。」
「んー、そうだったかしら?」
と、彼女は首を傾げたかと思いきやみるみる口をぽっかりと開く。弛緩したそれを慌てて隠すように手で覆うと、瞼をすぼめてアチャーとやってみせた。
「…私としたことがうっかりノーマークだったわ。」
「その口ぶり、もしや。」
彼が突き詰めるまでもなく、彼女の中でイリヤスフィールの本拠地に関して調べておくという基本作業がすっかり抜おけちていたらしい。真っ先に把握すべき事項だったにもかかわらずあい変わらず凡ミスを冒すのはやはり遠坂家の血筋か。
「そんなことだと思っていたよ。まぁしかし大体の場所は把握しているからなんとか辿り着けるだろうよ。」
「…この際なんであんたが知ってるか問わないから、さっさと連れていきなさい私を。」
「あのな、私とてあそこにあるという事しか知らん。それにアインツベルンの根城だ、取り囲む森は監視下だろうにむざむざ突っ込めばバーサーカーのいい餌だぞ?」
むぅと肩を怒らせてつつも言いくるめられている状況に彼女は耐える。もっともな追及をかわすのは逃げに均しいと、彼女のプライドが彼女自身を断じるからだ。誤りは素直に認めるのが彼女のいい点といえる。
「…言う通りよ。まずは一旦帰って父さんの書斎を洗いなおすわ。確かあそこにアインツベルンの地図もあったはずだから。」
「ああ、それがよかろう。どうせ殺しあいになるならば森だろうが城の中だろうがペナルティの程はさして変わらん訳だが、万が一という話もある。おおよその距離感や位置地形は把握すべきだな。」
「そうね、想定しうる最悪の場合なんてあんまり考えたくないけど、ここまで来たらそうならないよう祈るしかない。」
万が一を仄めかし事態を重苦しく捕えるのはいけないと理解している。マスターが不安を見せては示しがつかない。だというのに赤いサーバントはマスターの気負いを見越してか朗らかに目を細めて笑ってみせたのだ。
「大丈夫だ凛、何があろうと君一人ぐらいなら守りきってみせよう。」
その刹那、見もしない光景が頭に浮かんだ。少年が大好きな少女を必死で守る姿、少年が大好きな少女に絶対守ると誓う姿―別段どうと言うこともない。だが彼女は怒りにもにたやり切れなさに降って湧かれ奥歯をギチリと噛み締めずにはいられなかった。
「アーチャー、そんな馬鹿な発言は二度と口にしないで。」
誰かを蔑みながら誰よりその誰かを模倣しきってみせるのは他でもなく、誰か。考えない方がいいと不吉な既視感を抑える。アレは誰の夢なのかという余計な想像はきっとしないほうがいい。そうして持ち上がった疑念を振りかざす事なく、「早くいきましょ」と男を冷たくあしらい、彼女は己の無意識で一行に鳴りやまない警鐘に気付かぬ振りをした。
結果、誰かは。
泥の影が森を飲む。ただでさえ薄暗い森が夜より深い闇に喰われ、巨大なスコップで掘り起こしたかのようにぽっかりとその場にある生命全てを奪い取った。あの化け物以外の影に潜り込んだ者だけが九死に一生を得、その中にイリヤスフィールと彼のマスターが含まれているのを彼は即座に確認した。そして同時に彼は、彼女を泥から自らの影に隠した替わりに、無防備になった自身の大半が食われたことも把握する。同じく、もう一人の’自分’も腕を付け根から喪失してしまったことも。
一先ず白い少女とマスターを無事守れた事実に安心し、彼は頭を上げ死にかかった自分と対面した。なんのことはない、そこで得たものは、衛宮士郎は大切なものならば命を懸けても守りたいと、例えばそれがはかなく霧散する夢であろうと、追いかけ続ける身の程知らずな男だったという結論だった。なにもかも絶望的なまでに変わらない。
―だけど、そういう人間は嫌いじゃない。
一体誰がそんな発言なんかしてしまったんだろう、お陰でさっさと楽に消えられなくなったと苦悶の最中、彼は血の気を失った自らの唇をふっと緩めた。
「私の腕をそいつにつければいい。」
そういわざるを得なくなってしまったじゃないかと心なしか嬉しそうに自嘲する。故に彼は悟り、ちょっとぐらい我が儘を零しても構わないだろうと目の前の少女を見据えるのだ。結局彼女には慰めどころか男の面子丸つぶれ、情けない事に相変わらず迷惑を掛けてしまっただけになってしまったが、きっとそれが『衛宮と遠坂』という因果な関係性の帰着点なのかもしれないなとかつての己を懐かしく振り返った。
ならば、どうせ零さずとも叶えるであろう『彼』の道の将来。だとしても、選んだ誰かと選ばなかった誰かへの僅かばかりの贖罪と自らの希望の意をこめて、彼は願って止まない本意を間際に告げた。
「凛、あいつを頼む。」と。
そういい終えるや否や力尽きたように彼の肉体を構成するエーテルが拡散し空気中に還元されてゆく。溶けて消える一瞬に室内の柔らかな光を受けて発光する粒子が名残惜しむように崩れて行き、彼は一つの心残りを託せた満足感からか少年みたいな笑顔で人としての姿を消失した。
残されたもう一人の『彼』は。ニノ徹は踏まぬと戒めるような、腕に巻かれた赤い聖骸布が誰かの残した赤の残像とかさなり、希薄になりかけた彼はその生を再び歩き出す事となる。
かつて誰かが頑なに意志を張り通したように少年もまた困難を乗り越えるがために道を歩き始める。どこか、ありし日々の続きを歩くような、細く険しい行き先を。だがきっと『彼』は乗り越えていくだろう。その在り方は紛れも無く苛立つほどに誰かと同じなのだから。
さぁ走れ、希望を抱いて疾走しろ。やれるものならば俺を超えてみるがいい。
あぁそうだ。お前がお前で在り続けたいならば。
エミヤシロウの選択が正しい事を、自らの生き様をもって証明せよ。