官兵衛どのに頼まれた願いであれば、聞きいれなければ仲立の件での恩義が返せないなぁと
感じて、薩人の川路利良と会おうと腰を上げたのはいつだったか。
新撰組時代川路の率いる軍と共に、長州軍を追っ払ったこともあったが
今や恨むべき西郷や大久保と手を組んで、警察という組織に全霊を傾けているこの男を
憎いという思い以外でなんと表せるというのか?
だが反面、変わり身の早い自分の姿もまたなんと可笑しいことか。
そもそも政治理念とやらにあまり興味がないタチだからなのだろうが、これと決めた人が
いたら形振りかまわずその人の為に剣を振るう人生を送ってきた。
それが自分の中での武士道だと思っているし、これからもそれを変えようとは思わない。
自分というものがないと言われるかもしれないが、俺のような人間は
一人優れた人間を頭に置いてその人間に尽くすというやり方でなければきっと
まっとうな仕事などできないものだのだと考えている。
確かに俺はこの戦で、心から信頼のおける山川どのや官兵衛どのといった恩人や
苦労を共にしてくれた時尾というかけがえのない妻をえることができた。
だがしかし、一つ失ったものもある。
別れの今際にたった一言、「死ぬな」と言ってくれた、
闇で人を斬りつづける人知れないこの気持ちを一番に気遣ってくれた、
初めて己の一生をこの人に尽くそうとまで揺さぶってくれたあの人。
そう、土方歳三・・・
己はその人を失った。
それは、己のこの先の道の喪失を意味する。
剣の腕を生かして細々と道場で稽古をつけてやることで、二人分の生活費はまかなえるし
時尾も裁縫の腕が立つから、看板でも出して客を集めればどうにもならんことはない。
だが俺の人生は、信念というものがないいわばそこらの乞食にも劣るような畜生と
なんら変わりがないものになるだろう。
時尾もそれを知りながらこの現状を黙認しているようだし、自分もなんとかせねばとは
思っていたが、そんな矢先に官兵衛からの川路への出向の言葉。
まだこれからの生き方を模索している己には、いっそこれを良い機会だと捉えなおして
まずは会ってやろうくらいの気持ちに改めてみることにしたのだった。
某日某所にて―
こざっぱりとした袴をき、腰に刀を据える。
別に川路を殺しに行くわけでもないので携える刀は脇差一本に控えて、時尾に見送られながら家を出た。
待ち合わせの場所は最近出来たらしいちょいと小洒落た料亭。
どうやら官兵衛どのから俺の好みを聞き出したらしい。
まったく今度の男はいらんところまで気が利くと苦笑しながら、すでに相手が薩人だということは
頭の隅へと追いやられてしまったことに気付き、どうもいかんなと自分に活を入れる。
しかしどこかで何か予感を感じ、無意識のうちに心が躍ることまでは抑えようも出来なかった。
約束の場へつき名前を告げると、女将らしき女は奥のこじんまりとした間へ俺を引き入れた。
部屋には格子窓が南側にあり、外からの風が心地よく入り込む。
さっぱりとした部屋がどうも自分の何もない部屋と似ていてなんともいえない気持ちになった。
数刻たったろうか。
廊下から足音が聞こえ一人の男が部屋に顔を出した。
歳は俺より一回りは大きいだろう。
ひどくいかめしい顔をした御仁だと予想していたが、うって変わって人の良い顔付きをしていた。
そしてなにより。
今まで自分は丈が高い方だと思っていたが、それをまた超える人間が
いるのだということにも気付かされた。
目の前の男はすぐに腰を落とすと「遅れてすまぬ」と断り
「私が川路利良だ」
と名を名乗った。
少し俺を見定めるような視線を送ってよこしたが、少し微笑んで
「君が藤田君かね?」
と聞いてきた。
「はい、左様ですが・・・。」
俺もまだ完全に心開いたわけではないから、いつもの無愛想といわれる声の調子で返事をする。
みた限りでは俺とはまるっきり正反対の意味でつかめない御仁だと判断したから
とりあえずは話をしようという結論にたどり着いた。
あちらもはなからその気でいるから、その点では会話が円滑に進む要素はあったとみていいだろう。
・・・一見屈託のない笑顔で話を切り出す姿は無邪気な子供のようで、かといって
その奥にある本心は必ずしも子供のように奇麗な代物ではない。
きっとひとたび変われば恐ろしい顔で回りに怒鳴り散らすに違いない。
そして、警察とかいうものの威信が覆られようものならきっと誰でも容赦なしに殺すだろう。
あぁ・・・
どこかで喜んでいる獣が潜んでいた。
早く人を斬らせろ、早く赤い血を見せろと喚く。
阿鼻叫喚の世界でしか生きられぬこの獣は、無意識の世界を抜け出し知らぬ間に意識の世界すらも
取って代わって支配しようと足掻く。
男は言う。
「このまだなにもかも不安定な政府を支えるにはなによりポリスの強化である。
しかしただ法規やら人やらを強化するだけでは駄目なのだ・・・。
どの時代にも光に浴びることなく暗に生きた輩が必要なように、このポリス、そして政府には
密偵というものが必要なのだ。影で邪魔物を排除するな。」
この男の目は見透かしている、
そう己は判断していた。
どこぞの見世物で聞いた猛獣遣いとやらの目もこんなものに違いない。
酷く優しい目の光は己の内心にある獣を見つけ出し、すぐに躾てしまったのだ。
獣は抗うことなく服従の姿勢を取り、代わりに早く血肉を食わせろと訴えている。
この湧き上がる感情はなにか?
狂おしいほどの慕情ともつかぬ、それでいて酷く険悪極まりないどす黒い歓喜は?
「・・・その顔はもう答が出ているようだな。」
訳のわからない感情に支配されている俺は、自然と薄ら笑いを浮かべていたらしい。
誰にも見せることがないであろう殺人という快楽を求める本性が、いま川路という男の手で
再び日の目の元にて暴かれた。
一瞬にして過去が甦り、そしてまた一瞬にして過去が消える。
繰り返すようでいて昔のそれとはまた違うもの。
全く俺という人間ほど手に負えん男はいないに違いない。
川路は髭を少し撫でてから、またこうも言った。
「いまの表情は君の奥さんにはとてもではないが見せられんな。」
俺の耳に届く言葉は、稀に見る極上の皮肉。
冷静な目の前の男にとっては使い勝手のよい獣を手に入れた気分なのだろう。
「はい、見せた時は・・・殺すかもしれませぬな。」
一度壊れた檻は、再び修復するまで獣を野放しにする。
すでに尋常でない言動になっていることは気付いているのだが、もうどうしようもない。
本性が素直にそう言っている。
女子供など関係はない、愛するものですら手に賭けたいくらい・・・
―ヒトガキリタイ
「だがそんなことはさせんよ。俺が命じたものだけに手をかけることを許すだけだ。」
男が懐から書面を取り出しながら言う。
ちまちました作業をなんの不便も感じぬという風に手を動かし、そして同時に
可笑しくなった俺を即座にして正常へと戻した。
凡人には不可解とも取れる俺の言動行動のすべては、川路にとっては至極理論蒼然とした
ものなのであろう。
再び顔を上げた川路はすでに役人の顔をしていて、目をあわせるとこう言った。
「それを守れれば君の身分はすべて受け持とう・・・、齋藤一君。」
はじめて川路からかつての、その本性を存分に振るわせた時代の名で呼ばれた。
君は今から表向きは政府の役人藤田五郎となる、だがしかし俺の命を受けた時のみは齋藤一となることを許そう―
時は巡り、再び俺は従うべき人間を見つけたのだ。
その後、不覚にも俺は目が潤んだ・・・。
あれから手渡された書類に名前を書き、血判を押した。
久しぶりに見た己の血の色は改めて自分が甦るという決意を秘め、どこか熱く感じられたのを覚えている。
家に戻って何事もないような顔をしていたが、時尾も「お勤めは決まられたのですか?」
としか聞かずその場で川路との話はうやむやになった。
後日官兵衛どのが訪れて、俺もポリスの方で雇い入れてもらったという話をしていき
帰りがけ時尾に「あんたの旦那さん、晴れて役人になられたのだから家では寛がせてやれよ。」と
人のいい笑顔を浮かべて話して行った。
時尾は当たり前ですといって返したらしいが、わざと含みを持たせて俺にもやりすぎんなと
軽く警鐘していったつもりなのだろう。
まぁ、出来るだけはそうするつもりではあるが・・・
すべてはあの男の思うがままに。
このどうにもならない獣を見せるのは、この家では閨の中で時尾を抱くときだけに留めよう。
この本性がいつしか事切れるまで、すべてはあの男の中だけに・・・