会津藩山川兄弟データ

ここは超エリート兄弟で、上から

元会津藩若年寄のち貴族院議員山川浩

東大総長で日本初の理学博士となった山川健次郎

日本最初の看護婦で津田塾大創設に出資した大山(旧姓山川)捨松

兄弟に惚れこんで勝手に作った部屋です。















山川浩 山川家の長男。⇒詳しいプロフを見る

1845年生まれ。

戊辰戦争の折、会津藩の若年寄を務める。

陸軍を指揮し、大島と連携をとり見事一度だけの勝利を得るも敗戦。

斗南に流されてからは権大参時。

のち陸軍人事局長を得て陸軍少将になるも、

それ以上の昇格は望めず学問の道へ。

東京高等師範学校の総長兼任。貴族院の議員にもなる。

藤田さんの酒飲み友達。
山川健次郎 山川家の次男。⇒詳しいプロフを見る

1856年生まれ。

白虎隊に志願するも年齢制限により難を逃れる。

エール大にて物理学先行。

のち六代七代目東大総長を勤める。その他京都帝大、九州帝大の総長等。

「会津戊辰戦史」を編集し、会津の汚名を晴らすべく奔走する。
大山捨松 山川家の末妹。本名咲子。

1861年生まれ。(間違ってたらスミマセン)

津田梅子と共に(梅子八歳捨松十二歳)岩倉使節団一員としてアメリカへ留学。

会津戦争の折、敵方の砲弾隊長だった大山巌、現陸軍卿に求婚され結婚。

鹿鳴館の花的存在となる。

大山は彼女が英語劇をやっていたのを見て、その理知的な様に惚れたらしい。

捨松は当時交際していた男性がいたが、そいつを津田梅子に紹介して

自分は金銭的に豊かな敵方の男と結婚(爆)。

日本で最初の看護婦であり、梅子が津田塾大創設の折には出資者となる。

全くしらなかったが、世間では冷たいイメージがあるらしいが、それは誤解で

本当に心優しい人だったそうです。

















山川家の取り巻き
藤田五郎

警視庁警部で浩の酒飲み友達。

もとい新撰組斎藤一

職業密偵のち警部補。上司である警視庁大警視は以前の敵方川路利良。
ついでに川路は日本に警察を導入し、交番というシステムを世界初で開発。
だがその熱意での渡航帰途の最中病死という無念の人。
津田梅子
津田塾大創始者。

日本語よりも英語のほうが母国語な方。

捨松とは共にアメリカへ渡った時からの親友で男もお金も彼女から譲ってもらう仲。

女性の高等教育の必要性を強く主張し、再度アメリカへ留学したのち

津田塾大の前身を創設。その後の活躍は知っての通り。

大山巌
西郷隆盛の従弟にして
敵方会津藩の幕臣家族に惚れて結婚した人。

西南戦争では従弟の西郷隆盛と戦うこととなり、
その後二度と薩摩の地は踏まなかった陸軍大将。
坂之上の雲にも登場。












































山川浩プロフィール
「逆賊を陸軍少佐にするとは何事だ!」
と山縣有朋に言われてしまった苦渋の人。
コウカ二年 会津若松に生まれる
文久2年 京都へ。
慶応2年 対露国境検定交渉の一員で攘夷思想を捨てる。
明治2年 会津藩若年寄、戊辰戦争では軍事総督を務める。

九月二十三日降伏。

斗南藩では権大参事。
明治6年 土佐藩谷城に軍才を見出され陸軍に出仕。
明治10年 のち陸軍人事局長を得て西征別働軍参謀。
明治19年 陸軍少将に昇任。

東京高等師範学校校長も兼任。
明治23年 貴族院議員。
明治31年 男爵授爵。

51歳にて他界




































山川健次郎プロフィール
主な著作は「東京府下火災録」「理科大学紀要」「理科会粋東京気象編」(訳)

学生たちからは”白虎隊総長””会津校長”と呼ばれ慕われた。

朝は5時起床、六時に朝食、夕食は四時、六時には寝室に入り読書のち就寝という

剛直で清廉潔白な人物として世間から”秋霜烈日の人”として表された。

時間厳守、客の前では袴をつけ玄関まで送るだとか

卑怯な振る舞いやうそはいけない、年上には従えなどの家訓をしっかり守らせたそうです。

よく会津戦争の話をしたというのも傷痕の深さが伺えます。

慶応4年 白虎隊に加わるも年齢不足の為除隊。

戦いに敗れ開城ののちは猪苗代送りにされ謹慎生活を送る。

厳戒をくぐりぬけ松平容保の助命嘆願の特命を受け、

若松へ潜入。無事やり遂げる。

しかしその行動を咎められ安穏寺にて謹慎し、その中で

漢学を学ぶ。
明治2年 松平容保御赦免、南部斗南藩に移封

東京芝に斗南藩校開校
明治3年
健次郎上京し、斗南藩校にて英語を習うも八月に藩校閉鎖。

その為沼間守一の私塾に居候し理学や算術を学ぶ。

同十一月北海道開拓使から海外留学の命が下される。
明治4年
アメリカへ留学。

最終的にエール大の付属スクールに入学して物理学を学ぶ。
明治8年

帰国後、東京開成学校の教授補に採用。
明治19年
帝国大学学令の公布により、帝国理科大学の教授となる。
明治21年
日本で最初の理学博士の学位を授与される。
明治34年
東京帝国大学総長に任命される。

その後、九州帝国大学、京都帝国大学のほか、明治専門学校、

武蔵高等学校の校長などを歴任。
昭和6年
他界。

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